4月も半ば過ぎというのに、朝から冷たい風が吹く21日、大和郡山からバス道を南へ歩く。柳町から天井町、本庄町、杉町さらに丹後庄町と歩いて東に折れ、佐保川を渡ると南北に長く番条(ばんじょう)の集落が見える。この日、番条では年に一度の「オダイシサン」という行事が行われる。
 番条町では全戸が弘法大師の小さな座像をそれぞれ屋内で祀っている。4月21日の大師の命日には、その像を門屋や玄関に祀る。一軒毎に北から南に参って廻れば四国八十八カ所の札所巡りが、一つの集落でできることになる。

  10時前に着いて北へ向かって一軒ずつ回り始める。家々では朝から玄関に台などをしつらえて祭壇とし、風呂敷などを敷き、高さ40センチメートルほどの観音開きの厨子を置く。前には花や餅が供えられ、ロウソクや線香とリンや鉦を置いてある。厨子の中にはさらに高さ10センチメートルほどの小さな厨子があり、ここに高さ7~8センチメートルほどの弘法大師の座像が祀られている。

 大きな方の厨子の扉には札所の番号と寺に詠歌を記してあり、ここにちょうど収まるほどの小振りなお膳が据えられている。皮のついたままの竹の子を中央に立てて、椎茸・高野豆腐・蕗などの煮物やご飯や吸い物に佃煮類などその家毎のやり方で調えられている。どこでも丁寧に美しく祀ってある。お祀りしたままで、そばには人もいないので自由にお参りが出来るが、時々婦人が出てきて、お供えの白餅やヨモギ餅を補充している。参った人がいただいていくからだ。大師堂では、大師講の婦人が交代でついて、参った人に供えた餅を持ち帰るように勧めてくれていた。オセッタイ(お接待)だという。「いつからか分かりませんが、ここに嫁入りしてもう50年ずっと続けている」と22番札所の松本家夫人は語り、「おばあさんがしていたとおりに今も御膳を作っています」と14番札所の絈井(かせい)家夫人は話してくれた。祀る場所や方法はその家毎に少しずつ違うが、厨子や大師像は、同時期に作られたものであることが分かる。大和の北部地域では、明和6年(1769)に郡山紺屋町の池田屋六兵衛が願主となって、大安寺を一番札所とする四国八十八カ所詣りが始められており、番条の南部にある阿弥陀院が5番札所、北の端にあった光明院は64番札所であった。

 また文政13年(1830)に番条でコレラが流行し、それを契機に弘法大師を信仰するようになったという話も残ることから、江戸時代終わり頃から始められたのではないかと言われている。

 現在番条地区は82軒であるため、一軒で複数のオダイシサンをお祀りする所もある。ふだんは仏壇に祀られるオダイシサンが年に一度開帳され、巡る人にお接待をする。遠く困難な実際の巡礼の旅に比べて、簡便さを求めた結果ではあるものの、それだけではないように思われる。番条の「お接待」に見られるように、巡礼する者からそれを支援する側への転化が見られ、また大師信仰の村落への浸透としても考えることが必要であろう。

 県内のミニ巡礼としては、西国三十三カ所、四国八十八カ所のほか、寺の裏山を大峰山に見立てて、石造役行者像を建てる行者山などもある。五条市内には大和新四国八十八カ所が設定されている。これは元禄以前に溯ると言われ、現在も春秋二度、市内外の信徒による遍路が行われている。 

 北側半分を漸く廻り終えた頃、小雨が降り出してきた。集落のあちこちを地図などを頼りにいくつものグループの人がまだ歩いている。この日が誕生日だという夫人連れの男性は、「今年初めて来ることが出来た」とにこやかに話してくれた。(2006年4月21日調査)

※「郡山・矢田民俗誌のために(1)」『奈良県立民俗博物館研究紀要』第23号(鹿谷勲執筆)より

お問い合わせ

県立民俗博物館
〒 639-1058大和郡山市矢田町545
県立民俗博物館TEL : 0743-53-3171FAX : 0743-53-3173