史料紹介「庁中漫録」

「庁中漫録」とは

 「庁中漫録(ちょうちゅうまんろく)」は、奈良奉行所の与力(よりき)の職を勤めた玉井定時とその子孫によって筆写された文書群で、奈良県立図書情報館寄託本が78巻を数えます。そのうち、もともと「庁中漫録」の表題をもつものはわずかで、大半はそれぞれ別の表題が付けられていました。のちの時代に玉井家で整理された際、新たに通巻番号が付されたことにより、これら78巻の文書群が便宜上「庁中漫録」という共通の名称で一括されるに至りました。 

この大部分を筆記したのが玉井定時です。定時は、正保3年(1646)奈良奉行所与力井関六大夫の長男として生まれ、当初は大和郡山藩に仕えて大和各地の文献や伝承を調査していましたが、延宝7年(1679)33歳の時、父の跡を継いで与力となりました。当時、奉行所では執務のために関係資料を収集する必要が生じたため、定時にも文献調査とその記録が命じられました。加えて、退職後は大和の地誌である「大和名勝志」全16巻を完成させ、享保5年(1720)75歳でこの世を去りました。 庁中漫録

「庁中漫録」の内容は、この「大和名勝志」をはじめとして、法令等の奉行所関係記録、自身も関与した寺社の巡見・調査記録、さらには戦記や文学作品にまで多岐にわたり、近世初中期の大和国の基本史料として質・量ともに群を抜いています。この貴重な史料をもとに、奈良県の歴史を読み解いていきましょう。

 

参考文献

・秋山日出雄 廣吉壽彦編『元禄年間 山陵記録』
(由良大和古代文化研究協会, 1994)

・幡鎌一弘 『寺社史料と近世社会』(法藏館,2014)

「大和国著聞記」について

大和国(現奈良県)は、古代のみならず、中世以降についても豊かな歴史を有しています。特に戦国時代には、全国的に広がった戦乱状態が、大和国にも波及したことにより、さまざまな合戦や人間模様がみられます。
今回紹介するのは、「庁中漫録」のうちの「大和国著聞記」(「庁中漫録」第19巻)の一部です。この古文書は、江戸時代に入って編纂されたものですが、この巻では江戸時代以前の歴史がコンパクトにまとめられています。

寺院勢力と衆徒の動き

鎌倉・室町時代における大和国の主要勢力のひとつに、興福寺・東大寺などの寺院勢力がありました。中世寺院は「衆徒(しゅと)」と呼ばれた人々を数多く抱えていました。彼らは、直接寺務に深く関与する者、普段は農業に従事して生活する者など、その実態はさまざまでしたが、非常時には寺院の戦闘員(僧兵)として戦場に赴きました。武装して戦う彼らの活躍こそが、戦乱に明け暮れた中世社会を生き抜く力にも、また一方でそれを引き起こす原因にもなったのです。
時に平氏軍や鎌倉幕府軍と対峙し、「反逆者」である源義経をかくまい、また他寺社と争った寺院の姿は、現在からは想像もできませんが、このような寺院のあり方が中世社会の大きな特徴であり、大和国はその中心地であったのです。

筒井順慶と松永久秀の覇権争い

戦国時代から織田・豊臣政権の時代に、大和国の主役の一人となったのが筒井順慶でした。筒井家は代々興福寺の衆徒で、室町時代にはその筆頭格にまで多聞城成長しました。祖父(順興)と父(順昭)の代を経て戦国大名としての地位を確立した筒井家の当主として、順慶は大和国における覇権を争いました。
もともと大和国には、「国侍(くにざむらい)」と呼ばれた地方小領主が散在していて、彼らは国内外のさまざまな状況に左右されながら離合集散を繰り返しました。この大きな要因は、「中央」との距離にあったといえるでしょう。室町幕府や織豊(しよくほう)政権は、みな畿内もしくはその近国に基盤を置く権力でしたので、ほど近い大和国はその動向に大きく影響を受けました。その代表例を、筒井氏と松永氏との国主争奪戦にみることができます。織田信長への臣従によって大和国の支配権を獲得しようと目論む両者の態度は、群雄割拠の戦国時代から中央集権体制へと移行しつつあった当時の状況を象徴する動きでした。

順慶と二つの逸話

ところで、順慶は、その長くはない生涯のなかで二つの逸話を後世に残しました。順昭から順慶への家督相続の際の影武者にまつわる「元の木阿弥(もくあみ)」、そして山崎の戦において順慶が静観に徹した「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」の故事です。今回の公開箇所では、「洞ヶ峠の順慶」(実際ここに進軍したのは明智光秀の方で、順慶が布陣したというのは誤伝です)の比較的詳細な経緯が、順慶側の視点から描かれています。この時の順慶の行動は、のちに日和見を意味する比喩表現(「洞ヶ峠をきめこむ」など)として使われ、順慶自身が日和見主義の代表者として認識されるまでになりましたが、さすがに大和国を主題とする「大和国著聞記」では、順慶の判断を必ずしも悪とはしないストーリーが展開されています。 

筒井家ゆかりの武将達

島左近の墓所また、筒井家臣団のなかにも、著名な武将がみられます。例えば、石田三成に仕官して関ヶ原の戦(1600年)に散った猛将のイメージが強い島清興(左近)、また島原の乱(1637~1638年)が起きた際の領主として知られる松倉氏の先祖松倉重信は、もともと筒井家に仕えていました。松倉重信の子重政も、はじめ順慶の養子定次に仕えましたが、のちに関ヶ原の戦の軍功により大和国五条1万石の大名となりました。「大和国著聞記」では、島清興を差し置いて、松倉重政の猛将らしい活躍が語られています。

歴史をひもとく楽しみ

筆記者である玉井定時(奈良奉行所与力)は、「大和国著聞記」の最後に「此本者(は)、興福寺領下添上(そえかみ)郡八条村庄屋源左衛門世々(よよ)所蔵家也(なり)、懇望不浅(あさからず)、願成(なる)」(この本は、興福寺領内の添上郡八条村の庄屋役を勤める源左衛門の家が代々所蔵している。これを見ることは私の積年の願いであったが、ようやくそれが叶った。)と記しており、本書が他人の蔵書を拝借して写したものである点が確認できます。また、定時がそれの閲覧・筆写を心の底から希望して、ようやく願いが叶ったことを非常に喜んでいる様子が読み取れます。

史料紹介

中世大和国の動向(「庁中漫録」19巻「大和国著聞記」)

古文書と翻刻文(1)(PDFファイル)
現代語訳(1)(PDFファイル)


大和国の合戦模様(「庁中漫録」19巻「大和国著聞記」)

古文書と翻刻文(2)(PDFファイル)
現代語訳(2)(PDFファイル)

大和の国侍達(「庁中漫録」19巻「大和国著聞記」)

古文書と翻刻文(3)(PDFファイル)
現代語訳(3)(PDFファイル)


※上記史料翻刻に関する凡例はこちら

※現代語訳について、原文の意味が通らない場合、以下の二書により内容を補った箇所があります。あわせて参照ください。
・「大和記」(『続群書類従』第20輯下、524~547頁)
・「大和軍記」(『改定史籍集覧』第13冊、626~639頁)

史料解説

「大和国著聞記」の書誌学的特徴と典拠資料(PDFファイル)