iJAMP-時事通信社- オピニオン寄稿(2016年4月25日 掲載)
         「このくにのかたち」を考える(その14)


 

.「このくにのはじまり」を造られた天武天皇

 現在のわが国の政治の基本であり、くにの骨格となっているのは民主主義ですが、それと不可分の関係にあり、統治の基本となっているのは法治主義だと思います。民主的に形成された法によってのみ人は支配されるのが法治主義です。人権主義も法治主義の親戚です。わが国の法治主義のはじまりは、7世紀の後半、壬申の乱の勝利によってわが国を治める権力を得た天武天皇が造られたと思います。

 天武天皇は、壬申の乱(672年)の後、飛鳥浄御原宮で即位され、天皇中心の専制国家樹立を目指されました。白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に完敗(663年)した後、国内政治も安定しない状況で、強く安定した統治を確立しようとされました。

2.天武天皇は、天皇統治確立のため国史と律令の撰修を命ずる

 天武天皇は、天武10年(681年)2月25日に律令撰修(りつりょうせんしゅう)の詔勅を、同年3月17日に国史撰修の詔勅を発せられています。

 これは、国史と律令は国の両輪、すなわち国史によって過去を総括し、律令によって新時代を統治するためであったと言われています。当時の政治状況からして、過去の総括と新しい統治制度の確立が、政治の安定のために必要だったのだろうと推察されます。

 過去の総括は日本書紀と古事記の編纂(へんさん)で、新統治制度は飛鳥浄御原令の撰修で行われました。この時、国家の統治機構を確立する令はできたのですが、行動規範を確立する律は、唐の律が日本の実情に合わず、当時日本の律は成立しなかったと言われています。社会規範の分野で、外国の法令が日本の実情と日本人の心理にフィットしない傾向は今も続いています。

3.日本書紀の編纂過程

 日本書紀は、681年に国史撰修の詔勅を下された約40年後の720年に完成しました。30巻に及ぶ日本書紀は編纂40年の間、誰が撰述(せんじゅつ)したのでしょうか。

 最近、京都産業大学の森博達(もり・ひろみち)教授は、音韻学の立場から日本書紀の巻ごとに使われる漢文を調査され、結局『日本書紀』は、中国原音に忠実で、誤用のない正格漢文で書かれたα群(巻14~21、巻24~27)と、倭習の誤用が多く和化漢文で書かれたβ群(巻1~13、巻22~23、巻28~29)に分かれると結論づけられました。恐るべき調査分析力だと思われます。

4.日本書紀の撰述は在日唐人と半島留学経験のある日本人によって行われた

 森博達氏は、その他の資料の判断から、α群は持統朝時代(690~697年)に唐人の続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)が撰述、β群は文武朝(697~707年)に日本人の山田史御方(やまだふひとみかた)が撰述したと結論づけておられます。また、巻30は紀朝臣清人(きのあそみきよひと)が撰述し、三宅臣藤麻呂(みやけのおみふじまろ)がα群とβに潤色を加え、記事を加筆したとされています。

 日本書紀は720年に完成しますが、ちょうど東京オリンピック・パラリンピックの年2020年は、日本書紀完成後1300年ということになります。40年かけて撰述された日本書紀は、天武天皇の当時の御心(みこころ)どおりの役割を果たしたのでしょうか

=「薩」以外に、「薛」など複数の異体字で表記される場合があります。