iJAMP-時事通信社- オピニオン寄稿(2017年4月3日 掲載)
         「このくにのかたち」を考える(その17)




 今回は、わが国の発展形態の変遷の中で、地方政府の役割はどう変わってきたかについて考えたいと思います。

 まず、徳川時代に築かれた「日本近代の発展の基礎」について考えます。今に続く日本近代の発展形態の原型が、徳川時代に見いだせると思われます。

1.徳川時代の統治構造は身分制に基づく政経分離体制

 非生産階級である侍が徳川時代の統治を行っていました。経済の中心財である「米」の生産は農民、流通は大阪を中心とする商人が担い、身分制に基づく「政経分離体制」でありました。

 武士、農民、商人、工人は住む場所も異なっており、村は農民身分が住んだ場所、城下町は侍身分と町人身分が住んだ場所となっていました。侍はお城を中心とした近隣に、町人は城下町の中で「両側町(通りの両側に同業種が店を並べる)」と呼ばれる場所に住んでいました。

 最近の研究でおもしろいのは、江戸で大火がしばしば起こったのは、江戸は長屋住いの独身者が多く、酒を飲んでたばこを吸うので火の用心が悪かったせいで、大阪であまり発生しなかったのは、大店の商家に多人数が住んでいたので火の用心がゆき渡ったとされている点です。ところでこのような徳川時代の統治構造が、どうして日本近代発展の基礎を築いたのでしょうか。

2.藩校教育、寺子屋教育は近代の経営人材育成の基礎

 領地の米の収穫高に比して、消費階級である侍の多い藩や幕府は財政が大変だったと思います。徳川時代の侍階級は、生産・流通の役も担えず、藩校教育による侍としての規律の維持と職能の訓練に明け暮れ、本来業務である戦闘要員としての活躍の場もないため、浪人になることを恐れ、減給にも耐えるくせがつき、現在でもメンバーシップ制による雇用契約(家禄に類似)に固執する傾向が残っていると思われます。

 戦国時代は、家臣が主君の元を離れることはたびたびあり、主君は「感状」という再就職あっせん状のようなものまで出していました。離職元の保証書は、今日の流動化する雇用環境では必要なツールかとも思われます。

 藩校教育では、主に朱子学に基づいた教育が行われましたが、合理的に考えるクセがつき、寺子屋教育とともに日本人の論理的思考や規範意識を育む大きな原動力になったと思われます。逆に天領が多かった地域は領民教育の風土が育たず、今日の教育成果の地域格差の遠因になっているとも思われます。

3.徳川時代には強固な村落自治があったが、現在の経営組織の中にも村的マネジメントが残っている

 村は、農民という「身分」の者が集落を形成し、領主に年貢納入の責務を持っていました。領主が年貢負担を命じる単位は村で、個別の農民ではありません。個別の農民の年貢の負担割合は、村の中の分業や慣例に任されており、領地管理が農民の個別の年貢配分まで及んでいないわけです。

 このような村落の経営は、良い村長がいれば強力な経営組織の単位になりますが、人的なつながりで村落を経営しているため、開放型になれない短所があります。現在のグローバル社会において、所有と経営の分離が基本となっている経営組織の型と違う、人のつながり重視の村落コミュニティー型の経営組織が、現在でもわが国に散在している遠因とも思われます。

 村的マネジメントの良い所が、現在の地域コミュニティー重視の地方行政の中でどのように活かされるのか、これからの注目点です。