JAMP-時事通信社- オピニオン寄稿(2017年10月30日 掲載)
         「このくにのかたち」を考える(その19)




 

 

 来年は明治維新150年になります。「このくにのかたち」を考える良い機会になろうと思います。
 前2回は、日本近代の発展形態の原型が徳川時代に見いだせるのではということを述べました。今回は、明治初期、日本の発展形態について、路線の対立のあったことを述べます。

1.路線の対立、中央政府の強化か地方自治の継承か

 徳川時代は、村落自治を核にした、分権的な統治機構が基本になっていたように思いますが、開国、列強との対峙という国際環境の下で路線の対立がありました。
 意外にも「地方自治は国家の基」と主張したのは、陸軍創設のリーダ-、山縣有朋(1838~1922)でした。彼は、「自ら責任を持って実際に地方の実務を担当した人々は、政治の経験が豊富になり、帝国議会議員に選ばれた場合は、世間の「政治家」と称して異論を唱え不平を鳴らし議会の秩序を乱そうとする者たち(民権家たち)と比較にならず、帝国議会を円滑に機能させ得るであろう」と主張しました。
 

2.山縣有朋の地方自治論とは

 西欧列強の圧力の下、「立憲政体」を確立することは明治国家の基本方針として山縣も認めていたことが分かります。その上で、徳川時代の武士の処遇に腐心しているように思います。
 上級の武士階級を華族にしたり、中堅の武士階級を役人や軍人での登用の道を開いたりの苦心が見えます。山縣が恐れたのは地方の不満士族が国家のアウトサイダー化し、国家発展にとって負のエネルギーをつくることだったと思います。
 一方「議員」という立憲政権の中の大事なプレーヤーには「地方での実務経験」という政治家の資質に必要なものを求めました。このことは現在の政治家養成プロセスとしても大変重要視してもよい点だと思われます。山縣の現実感覚が光っているように見えます。


3.究極の地方自治を主張したドイツ人 行政アドバイザーのアルベルト・モッセ(1846~1925)

 彼は、地方行政組織の合理化において、分権的国家を強く主張しました。つまり、
 ・中央集権体制では、中央政府は失敗すると、国家が転覆する。
 ・地方分権と地方自治はリスクを分散させ、政治を安定させる。
 ・身近な自治体の行政の事務を自分たちで遂行することによって住民に行政への責任感が生まれる。
などの主張です。
 今でも光り輝く立派な地方分権論だと思います。当時のドイツの実情より進んだ、また、恩師のグナイストをも驚かせた革命的な主張でした。
 彼の主張は受け入れられませんでしたが、明治政権がモッセ風の国体になっていれば、後の戦争は起きなかったのではと思わせる新鮮さを今でも持っています。


4.その後の中央集権国家の形成
 
 山縣とモッセの主張は、明治政府では少数であり、徳川時代に地方自治の拠点であった村落自治を地租改正で壊し、その後、市町村合併を大胆に行って中央集権国家を作ってしまいました。地方制度構築にあたっては、鳥取藩出身の内務官僚 松田道之(地域区割りに基づく統治を主張)と熊本藩出身の司法省官史 井上毅(根本的制度改正に消極的)の対立と妥協があったと言われています。
 今から見ても興味深いのは、中央省庁という組織に依拠した対立があったこと(今でも日本の中央政府内の対立構図の基本です)、対立と妥協の道筋が見えないこと(今でも政治課題において同じ傾向があります)です。
 しかし、結果として「町村合併」による「地方行政組織効率化」の動きは現在に至るまで、130年間も続き、1888年(明治21年)に71,314あった町村は、2017年(平成29年)には1,718市町村(かつての2.4%)までになってしまいました。