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奈良の生薬(しょうやく)
「大和当帰(やまととうき)」の秘密

 トウキはセリ科、シシウド属の多年草で、湯通しして乾燥させたトウキの根は、冷え性、血行障害、強壮、鎮痛薬などの漢方薬「当帰」として処方されています。その他、家庭薬としての利用や最近の入浴剤には当帰の配合されているものも販売されています。栽培される種類は、ヤマト(オオブカ)トウキとホッカイトウキがあり、奈良県では吉野郡を中心にヤマトトウキが栽培されています。
 奈良県の生薬の歴史は古く、允恭(いんぎょう)3年(414)、新羅から医師金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)を招き、允恭天皇の病気を治療した記録があり、このとき初めて中国の漢方薬が日本に入ってきました。
推古19年(611)には、推古天皇が兎田野(宇陀郡大宇陀町)に薬猟(くすりがり)し、山野に薬草や鹿の若角を求めた記録が日本書紀に残っていて、当時、宇陀などの山野は薬草の宝庫であったことが想像できます。1988年、藤原宮の発掘調査で71点の木簡が見つかり、判読できた30点の9割に生薬名が書かれていました。その中では人参、当帰、葛根(かっこん)の名が多く、山野で採取された薬草が各地から朝廷に送られ、天皇や一部の高級官僚に利用されたものと解釈されています。
 江戸時代に入って漢方薬の需要が高まり、中国から薬用植物の種や苗を輸入するとともに、山野に自生する薬草、薬木(やくぼく)を用いて、試験的な栽培が盛んに行われるようになりました。江戸時代の「本草弁疑(ほんそうべんぎ)(1681)]に「今、薬家の者は山城、大和に多く之を作り出す」とあるように、17世紀の中期に山城や大和で当帰の栽培、生産が始まり、今日の「大和当帰」の基が築かれました。
 一方、中国での当帰の利用は前述のように非常に古く、紀元前100年頃に編纂(へんさん)された中国最古の漢方書「神農本草経(じんのうほんそうきょう)]には、唐当帰(からとうき)は中品(ちゅうぼん=害も少しはあるが効果の大きいもの)として記載されています。その後の類似する名前をつけた当帰のうちで、最も品質の良い基準品とされ、漢方の重要な薬として処方されてきました。
 唐当帰は、日本産の大和当帰や北海当帰と比べると、香りや味もちがうため、家庭薬の原料である北海当帰の代わりにあまり使われなかったので、昭和初年頃から生薬市場ではほとんど取り扱われなくなりました。しかし、昭和30年頃から日本産当帰の品不足によって、再び輸入されある程度の市場性を持つようになりました。
 国産の当帰の歴史を振り返ってみると、今から約300年ほど前、先人達は当時輸入品で高価であった唐当帰にかわる生薬として、わが国に自生する植物の中から現在の当帰のもととなった「トウキ」を選び出しました。苦労の末選び出された植物は、カラトウキとはまったく別の種類であったにもかかわらず、結果的に同じ成分を含んでいました。当時、科学的手段がほとんどなかったことを考えると、五感のみによって、的確な代用品を選び出した古人の卓見には、驚くべきものがあります。

2005年12月
奈良県農業技術センター
農業情報・相談センター 総括研究員 川岡信吾