平成24年仕事始め式
                                                                           平成24年1月4日 第1会議室

 皆さんあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。今年は、古事記成立1300年の古事記成立イヤーですので、まず、古事記の話から始めさせていただきます。
 
 本居宣長が古事記伝を松阪で書きましたが、その中の一節ですけれども、「凡て世(よの)間(なか)のありさま、代々(よよ)時々に吉善事凶悪事(よごとまがごと)つぎつぎに移りもていく理(ことわり)は、悉(ことごと)に此(こ)の神代の始の趣に依るものなり」という言葉があります。この吉善事凶悪事(よごとまがごと)(良いこと悪いこと)ということでは、昨年、凶悪事(まがごと)がたくさん起こったわけですが、次々に移ってゆくその歴史の理由、理(ことわり)ですね、理由の理はことごとにすべて、この神代の始の趣というのは、古事記に書いてある趣ですが、趣によっていると本居宣長が言っているわけですが、古事記伝の中の一節で、さらに本居宣長は、「ゆくさき万代までも思いはかりつべし」と将来までも思ってはかりつべきであると言っており、古事記の中に始の趣はどのように書いてあるのか、ということでありますが、この吉善事凶悪事(よごとまがごと)がつぎつぎに移りもてゆく理由は、1300年以来、あるいはもっと太古の昔から変わっていないわけですけれども、このようなことに対しての我々日本人の受け止め方は、思考の枠組みが書いてあるという話が説にあります。この思考の枠組みは何かということをこの古事記イヤーで我々がもう少し追求したいところではありますが、この吉善事凶悪事(よごとまがごと)、つぎつぎに移りもてゆく理(ことわり)が、今も起こっているわけですので、この神代の始の趣というのは何だろうかと一度、この一年、あるいはこの先々考えて行きたいと思います。我々日本人がこの吉善事凶悪事(よごとまがごと)に対しての対応の仕方、精神力、特に精神力が昔から同じパターンであるのではないか、その精神力によって我々は生き延びてきたのではないかと思わせる一節であります。

 この思考の枠組みというのをこれから考えて行きたいと思いますが、一方日本書紀の中にその統治の形を表している一節があります。日本書紀の仁徳天皇の紀ですが、百姓(おほみたから)、百姓(おほみたから)というのは百姓という字を書きますが、「百姓(おほみたから)貧しきは、朕(わ)が貧しきなり、百姓(おほみたから)富めるは朕(わ)が富めるなり。」と。これは天皇のおことばでありますけれど、ある面、民主的な言葉であります。統治者と人民とが富めるも貧しきも一体感を持とうという意識であります。今も政治がいろいろ混迷というか頼りにならないと言われております時代にこの吉善事凶悪事(よごとまがごと)移りゆく中で、我々が任された責任を日本の国民、あるいは県民とともに一体となって向かっていくといったようなことが、この古事記と日本書紀の一節に表れているというように言われました。

 昨年、奈良県が行いました日本と東アジアの未来を考える委員会の中でのご講義の一節をこのように拝借してご紹介をしたものでありますので、私の研究の成果ではないのですが、にわかに身に付いた、身に付いたというよりも耳に入ったことを古事記イヤーの始まりにあたりましてご紹介をさせていただくとともに、思えばこの本居宣長が言った吉善事凶悪事(よごとまがごと)というのは、本当に変わりなく起こるものだなというように改めて思いました。しかしそのように起こることは、当然のこととして、我々それにまず率先して対処する者とそれに大きく影響を受ける県民、国民、あるいは世界のいろいろな関係者という関係を今は民主主義ということの中で制度ができているわけですけれど、これは神代の始からいろいろそういう趣があるのだと本居宣長は言っているように、平に解釈すれば思う次第でございます。古事記発祥の地であります奈良県にとりましては、ことさら神代の始めを思い出すにふさわしいいろいろな出来事があった昨今でございますので、心を広くやわらかく持って、気持ちを確かにして、いろいろな世の中の吉善事凶悪事(よごとまがごと)に向かっていけたらと思います。年末の勉強会の知識を単に拝借してのご挨拶でございましたが、借り物の説ではありますけれど、なかなか心をうつ一説であるように思いましたので、引用しながら今年の年の初めの気持ちを表す言葉にさせていただきました。心合わせていろいろな事態に対処していけたらと思う次第でありますのでよろしくお願いいたします。以上でございます。