随分以前になるが大和郡山市小泉の小泉神社を訪ねて、当時の宮司登美川公達さんの母花枝さんにお話を聞かせていただいたことがある。明治32年生まれの方で、数え7才から75、6才まで巫女を務めていたという。小柄で上品な方で、丁寧にいろいろ教えていただいた。旧耳成村(現橿原市)十市の疋田家出身で、叔母も三輪神社の巫女を勤めていた。花枝さんは伯母の嫁した藤井家(大和郡山市小泉町)の養女となり、同家から登美川家に嫁入りした。お神楽は叔母から習ったといい、小泉を始めとする旧片桐村10大字(小泉・満願寺・池之内・田中・西田中・南井・小南・小林・西・豊浦)や旧本多村の椎木・今国府・馬司(以上大和郡山市)や旧富郷村の岡本・幸前・阿波・興留・高安(現斑鳩町)など、周辺の広い範囲の氏神に出仕していた。周囲からは、ソネッツアンと呼ばれていた。

 これら氏神のマツリとヨミヤの両日行くところと、ヨミヤだけ赴くところがあったが、田中の甲斐神社のように7月16日の夏祭り、8月7日の七日盆、9月1日の八朔、10月9日の宵宮に出向くところもあるので、秋祭り時以外にも出仕する回数は多く、年間かなりの数に及んだものと思われる。毎月1日には、頼まれている家にはオゴクを持参したというし、「岩戸の舞」「扇の舞」「剣の舞」「袖神楽」「鈴の舞」「浦安の舞」「榊の舞」「乙女の舞」などの神楽も伝えていた。

 会所のあるような神社では楽人を雇って、太鼓で拍子を取るが、1人で太鼓なしですることもあった。歌は楽人がいるところでは楽人が歌う。装束は白の着物に赤い袴を付け、白地に模様のついたチハヤを付けた。「岩戸の舞」は、神前にオケなどの丸い台を組んで、その上に乗り、足拍子を踏んでアメノウズメの舞をするもの。「扇の舞」の時には、「五葉の松を植えたまえ、東をはろうて夏木立、さやまのホトトギス、西にきかあというあらし、松の祝詞を吹きかえ、三輪の里の梅とかや」という歌がついた。「袖神楽」は鈴を執り、左手で右の袖を持って、「今日もまた神代の昔神遊び、おとめの袖を返す御神楽」という歌であった。袖神楽は、現在の春日大社でも失われている曲で、大和高原の一部の秋祭りで袖を取る所作のある神事芸能が伝わるが、その影響を受けたものと考えられる。
 また、小泉神社では年越しにゴマタキをしてオユ(御湯)をしていた。「かけまくも かしこき わがおおかみのまえに ミユカグラつかえまつるさまを氏子の諸人たちよ よのまもり ひのまもり まもりめぐりて さきはえたまえと かしこみかしこみを まおす」と祓詞を唱え、御幣を釜の中に差し込み、四方を柄でトンと突いて祓い、シトギとお神酒を注ぎ入れ、笹束を浸けて、四方を清めてから、湯を周囲に振り掛ける。この時は、腰に稲藁の穂先どうしを結び合わせたものを巻く。平年は12本(閏年は13本)とし、妊婦はこれをタバッて帰り、陣痛が来たときにお腹に巻くとお産が軽くなるという。釜の湯は、村の人が茶瓶にタバッて帰り、飲むとアセボなどの皮膚病にならない。また肩脱ぎをして湯にかかって帰ると夏に病気をしないという。
 花枝さんのあとは孫の清子さんが受け継いで、大和郡山市田中町、斑鳩町岡本・阿波へ出仕している。里の巫女ソネッツアンの伝統は今も健在である。

(ソネッタンの湯立については、拙稿「ソネッタンの御湯」『芸能と信仰の民俗芸術』森永道夫編2003を参照)
(1984年4月調査)
「郡山・矢田民俗誌のために(1)」『奈良県立民俗博物館研究紀要』第23号(鹿谷勲執筆)より

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