4月8日、好天のなか郡山城へ向かう。大勢の人々が桜を求めて天守台の方へ登っていく。天守台の石垣の周囲には、大玉の数珠が取り巻く。玉はプラスチック製で、直径15センチメートルほど。一つ一つには奉納者の名が記されている。西側には祭壇が設けられ、「南無釈迦牟尼仏為郡山城跡眠有縁無縁三界萬霊供養之塔也」と墨書された塔婆が立つ。ここで数珠繰り法要が10時から行われた。城跡でこの法要が行われたのは、昭和36年からという。当時の観光協会長広瀬元次郎氏が、城跡の天主台や周囲の石垣に多くの石仏や墓石が組み込まれているのをみて、石仏や築城以来のこの城にまつわる霊魂の供養を発願した。天守台の北側の石垣には、大永3年(1523)年の銘のある地蔵が埋め込まれ、「逆さ地蔵」と呼ばれて今も線香や花が絶えない。市民の浄財を集め、全長162メートル、数珠の直径15センチメートル、1,080個の数大珠が奉納されて、初めの年は5月5日に行われ、翌年からは桜の開花時に行われていた金魚品評会に合わせて実施することになり、平成19年で47回目を数えている。現在の数珠は二代目である。

 午後からは、市民参加のパレードが行われた。県警音楽隊や地元の中高生、市内の交通安全などの団体や、南京たますだれや阿波踊りやサンバなどの団体が、柳町から出発し、郡山駅前から郡山城ホール前までの道路をパレードする。いろいろな人々がとりどりの音曲で行う現代のまつりであるが、老いも若きも沿道詰めかけて、楽しそうに眺めている。

 江戸時代の城郭は、明治維新後に取り壊され、その跡地は学校や兵舎や県庁として利用された。近世権力が保有していた権威が、巧妙に新しい権力に受け継がれることになる。郡山城の場合は、明治9年に三の丸の旧郡山藩邸を仮用して、小学校教員養成のための郡山予備校(のちの旧制郡山中学)となり、本丸跡には、明治13年に旧藩士らにより、柳沢神社が創建される。そして昭和にいたり城跡の石仏の供養から、市民の祭が次第にできあがってきた。現代風のいわば何でもありの市民の祭であるが、その発端が城郭の石仏供養であることが、大和の風土を物語っている。

 県内各地でも、新しい現代のお祭りが生まれているが、どのようにして生まれ成長していくか、見続ける必要がある。現代の潤いのない社会で、ルミナリエなどの「光系イベント」が全国で数多く生まれている。県内でも燈火会が夏の集客行事として始められているが、年々話題となり、次第にその場所を拡げている。東大寺や春日大社などの宗教空間の挟まれて、このイベントは次第に個人の祈りや願いの場となりつつある。新しい試みのなかにも、その土地のもつ遺産や伝統が投影してくるところに、大和の持つ根強い息吹を感じる。

(2007年4月8日調査)
※「郡山・矢田民俗誌のために(1)」『奈良県立民俗博物館研究紀要』第23号(鹿谷勲執筆)より

お問い合わせ

県立民俗博物館
〒 639-1058 大和郡山市矢田町545
県立民俗博物館 TEL : 0743-53-3171 / 
FAX : 0743-53-3173