iJAMP-時事通信社- オピニオン寄稿(2015年6月25日 掲載)
         「このくにのかたち」を考える(その12) 



1.わが国の地方自治のかたちを決めた、明治期の町村合併
 古代から近世までの集落形成の変遷とその集落を壊す結果となった明治期の町村合併は、わが国の地方自治の態様に大きな変化を与えました。
 土地私有の発生から集落の形成、そして「村」の組成への変遷の中で、江戸時代には「身分制の下の村落自治」が発生していましたが、明治期には「四民平等」が実現する一方、行政効率化の要請のもと、村落自治が急速に衰退していきました。
 「身分制の下の村落自治」は、長年わが国の地方自治の基礎単位となっていました。村落自治のメンタリティーは、日本人の皮膚の下に埋めこまれていましたが、近年、都市化の進行とともに急速になくなってきています。
 まず、長年にわたって育まれたわが国の村落形成の過程を、奈良時代まで遡(さかのぼ)って見てみます。

2.土地私有の発生
 土地を私有することは、耕作地である土地を管理する行為と密接不可分なものです。最初の土地管理システムは、奈良時代の律令(りつりょう)による土地管理であり、これは戸籍に基づく権利確認によって土地を分与し、税負担をさせ、死亡後はその土地を収公する班田収授というシステムでありました。日本書紀によると、646年の改新の詔に、「班田収授之法(あかちだをさめさづくるのり)を造れ」と記されています。班田収授による土地管理の必要性から具体的な土地の地点を明確に指示するための条里制が施行されました。ちなみにこの条里制と田の面積の単位は、古代・中世を通じて適用され、それが変更されることはありませんでした。現在でも奈良県の農地にはこの条里制の跡が残っています。
 班田収授システムではまだ個人による土地の私有は認められていませんでしたが、その後の723年の三世一身の法、743年の墾田永年私財法により個人の土地私有化が確立されることとなりました。

3.集落の形成
 個人の土地私有が認められると、次の段階として、政治的、宗教的、農業技術的に他者に対して優越している者が土地を自己の支配下に置くことで、土地の集約化が進行し、集約化された私有地の経営のために荘(庄)と言われる倉庫や事務所が建てられました。この荘という言葉はやがて建物を含む土地、ついで周囲の耕地を指す言葉となりました(荘園制)。
 この荘園制が武士の台頭により、その形を変え崩壊し、消滅する中で近世の「村」を組成し、その支配者が「領主」と呼ばれることとなりました。

4.江戸時代の旧村の領主と村落での共助
 旧村の領主はモザイクに存在していました。
 食料の生産拠点である「村」には、年貢を納める「領主」がいるわけですが、領主の種別は、幕府、藩、旗本、寺社、公家等に分かれます。奈良県では一つの村を複数の領主が支配する「相給(あいきゅう)村落」が多かったことが分かっています。この場合、領主間には土地の境界はあまり意識されません。
 各村が領主に年貢を納めるのは農民個人ではなく、村全体で納めることとなっていました(村請制)。村の中で病人のいる家の年貢の立て替えなどの調整は、名主や庄屋などの村役人が担っておりました。また、飢饉(ききん)などの場合のために村が主体となって、貯蓄をしておく場合もありました(村融通制)。村落内の共助が行われていたわけです。
 このような江戸時代まであった村落自治が、明治期にどのように崩壊していったかは、次回述べます。