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奈良の散歩

2度即位(重祚(ちょうそ))した女帝
年表
亀形石造物の導水施設

 皇極(こうぎょく)(斉明(さいめい))天皇は、宝皇女(たからのひめみこ)といい、舒明(じょめい)天皇の皇后で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智(てんじ)天皇)や大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)の母。舒明天皇の死後、王位継承争いをさけるため、即位した。645年、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺された「乙巳(いっし)の変」後、弟の軽皇子(かるのおうじ)(後の孝徳(こうとく)天皇)に位を譲ったが、孝徳天皇の死後、再び即位し斉明天皇となった。わが国初めての譲位と「重祚」(再び即位すること)を行った天皇である。

 

権威を誇示する大土木工事

 唐が朝鮮半島に侵攻するという緊張の中で、日本でも中央集権化の改革が進められていた。斉明天皇は支配力拡大のため、阿倍比羅夫(あべのひらふ)に命じて日本海側(現在の秋田地方)の蝦夷(えみし)征討を行った。また、飛鳥の大土木事業にも着手。後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)、多武峰(とうのみね)の両槻宮(ふたつきのみや)などの造営の他、運河を掘削し、大量の石材を運び、石垣を築いた。土木工事に多くの民衆を徴発し、「狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)」と批判を受けたが、天皇の権威を示す計画的な飛鳥京づくりが目指されていた。平成12年に酒船石(さかふねいし)遺跡で発掘された亀形石造物も祭祀のための導水施設と考えられる。近年の発掘調査で大土木工事の一端が明らかにされつつある。

 

百済(くだら)支援のため赴いた九州で急逝

 対外政策では、唐・新羅(しらぎ)連合軍に百済が滅ぼされた際に、百済復興支援の大軍派遣を決定。自らも九州の筑紫(つくし)(現在の福岡県)に赴き臨戦態勢をとろうとした。しかし、慣れない船の長旅からか、朝倉宮(あさくらのみや)(福岡県朝倉市)で68歳で急死した。62歳で2度目の即位をするなど、波瀾(はらん)にみちた人生であった。
 『日本書紀』には、斉明天皇の葬儀を朝倉山上から鬼がじっと見ていたとあり、朝倉の社(やしろ)の木を伐採して宮を造営した祟(たた)りで、病が蔓延(まんえん)し、天皇までもがとり殺されたと記されている。

 

 
 
 

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