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奈良の散歩

中大兄皇子(なかのおえのおうじ)の娘として

 持統天皇は、中大兄皇子(後の天智(てんじ)天皇)と蘇我遠智娘(そがのおちのいらつめ)(蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)〈大化の改新で活躍〉の娘)の間に生まれた。幼名を★野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といい、13歳で大海人皇子(おおあまのおうじ)(天智天皇の弟で後の天武天皇)に嫁いだ。

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皇后として

 父である天智天皇は律令国家づくりを行った。父の死後、大友皇子(天智天皇の子)と夫である大海人皇子の対立から壬申(じんしん)の乱が起こるが、勝利した大海人皇子は飛鳥で即位した(天武天皇)。以後、皇后として夫を支え天皇中心の国家づくりを行った。

 

自ら天皇として

 夫の死後、子の草壁皇子とともに天皇をおかずに政治を行うが、草壁皇子が没すると、その子の軽皇子(かるのおうじ)(後の文武(もんむ)天皇)が成長するまでと、690年45歳で即位した。彼女は天武天皇の政治を引き継ぎ飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)を施行し、690年には庚寅年籍(こういんねんじゃく)を制定した。また、班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法(国が戸籍に基づき、6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)を支給し税をとる施策)を実施。藤原不比等(ふひと)(中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子)と協力し、律令を整備(大宝律令として完成)させるなど、国家の体制づくりを進めた。
 律令国家づくりの総決算が、飛鳥から藤原京への遷都である。唐の都、長安にならった都で、本格的な政治都市を建設した。

 

祖母として

 697年、孫の軽皇子が15歳に成長すると譲位したが、その後も文武天皇を支えて国家体制の確立に務めた。
 大化の改新の年に生まれた彼女は、夫がめざした律令国家体制づくりを整備し、奈良時代への重要な架け橋になったといえる。702年、58歳で亡くなり天武天皇陵に追葬された。今も夫婦仲良く飛鳥の地に眠っている。
藤原京

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