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奈良の散歩

謎の多い生涯
年表
人麻呂をまつる神社

 柿本人麻呂は、7世紀末の古代国家体制確立期、とくに持統天皇の時代を中心に活躍した。しかし、8世紀初めに成立した歴史書『日本書紀』に彼の名は一度も登場せず、生涯には謎が多い。
 『万葉集』には彼の歌と記された約80首のほか、約360首が「人麻呂歌集にある歌」とされている。この多くは別人の作と考えられるが、人麻呂が和歌の発展に、大きな役割を果たしたことは間違いない。

 

宮廷歌人として賛歌や挽歌(ばんか)を詠む

 人麻呂は、都が飛鳥と藤原京にあった時期、宮廷に仕え王権をたたえる賛歌や死者を追悼する挽歌を詠んだ。言葉の技巧を効果的に用いつつ、感情を壮大なスケールで歌い上げている。
 次の天皇と目されていた草壁皇子(くさかべのおうじ)が28歳で亡くなったとき、人麻呂は65句から成る挽歌を詠んだ。草壁の遺児軽皇子(かるのおうじ)が、父と同じく阿騎野(あきの)(宇陀市大宇陀区)で狩りをしたとき、同行した人麻呂は、草壁をしのび眠れぬまま夜明けを迎えた。
「東(ひむがし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ」(東方の野に夜明け直前の光が見え、振り返ると月は西に傾いている)

 

感情あふれる私的な歌

 人麻呂は、公的な歌のほかに熱烈な恋愛歌など私的な歌も残している。また、庶民に目を向けた歌もある。
「草枕 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに」(旅先で故郷を忘れて横たわっている 家の者は待っているだろうに)これは、香具山で見た死者を悲しんだ歌である。おそらく藤原京に労役か納税のためやって来た庶民だろう。
 人麻呂自身、中下級の役人で、地方での勤務もあったと思われる。『万葉集』には、人麻呂が石見国(いわみのくに)(島根県西部)で臨終の際に詠んだとされる歌がある。その次に妻の歌が続くが、その歌の検討から人麻呂の死地は河内国(かわちのくに)(大阪府東部)だと推察する説がある。

 

神としてまつられた人麻呂

 『万葉集』編纂の時点ですでに人麻呂は格別な存在であったが、時代が進むにつれ伝説化、神格化されていく。
 小倉百人一首(鎌倉時代初めに成立)の一つ「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」(山鳥の垂れた尾のように長い夜を、一人ぼっちで寝るのか)も、『万葉集』では作者名はないのに、平安時代の『拾遺集(しゅういしゅう)』で人麻呂作とされた。
 人々は人麻呂の肖像画を掲げ、お供えをし歌を詠んだ。さらに彼をまつる神社が奈良県のほか、島根県・兵庫県など全国各地に造られている。

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