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奈良のむかしばなし

 葛城(かつらぎ)市の二上山麓(にじょうさんろく)にある當麻寺(たいまでら)。寺伝では、用明(ようめい)天皇の皇子で、聖徳太子(しょうとくたいし)の弟の麻呂子(まろこ)親王が河内に建立した寺を、天武(てんむ)一〇年(六八一)、孫の當麻国見(くにみ)が現在地に移したという。本堂に祀(まつ)られた「當麻曼荼羅(まんだら)」は、浄土信仰が盛んとなった平安時代から信仰を集めた。
 その曼荼羅を織ったとされるのが、中将姫。姫の深い信仰心と哀しい生涯は、長く語り継がれてきた。
 平城京に都があった時代、右大臣藤原豊成(とよなり)に中将姫という美しい娘がいた。姫は三歳の時、母を病気で亡くした。七歳の頃から亡き母のいるところへ行きたいと願い、毎日「称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)」を読誦(どくじゅ)していた。
 そんな姫を不憫(ふびん)に思った父は新しい妻を迎えた。継母(ままはは)は、ますます美しく成長する姫を憎み、ついには姫を亡き者にしようと企てた。
 継母の讒言(ざんげん)を信じた父は、家来の男に、姫を雲雀山(ひばりやま)で殺すよう命じた。
 だが、いざその時になるや、男は逆に姫を助け、山深くにかくまった。
 後日、父豊成がその山に猟(か)りに訪れた。二人は再会し、父は姫を都に連れ戻した。だが、姫は十六歳の時、世の無常を悟り、當麻寺で出家。現身(うつしみ)の阿弥陀如来(あみだにょらい)を拝したいと願った。
 ある日、尼僧(にそう)が現れ、「蓮の茎を百駄(ひゃくだ)集めなさい」と教える。一駄は一頭の馬に乗せる荷の量。姫は早速それを調達した。姫は尼僧や織女(しょくじょ)の助けを借り、蓮から蓮糸をとり、近くにある石光寺(せっこうじ)でその糸を五色に染め、曼荼羅を一夜にして織り上げた。それが極楽浄土の様を表した「當麻曼荼羅」である。実は、姫を助けた尼僧が阿弥陀如来、織女が観音菩薩の化身であった。
 やがて、姫は、その阿弥陀如来に迎えられ、二十九歳で願い通り極楽浄土に往生を遂げた。
 當麻寺の西に見える、ひときわ美しい山容の二上山。その山の向こうに西方浄土があると信じられてきた。今も、夕日が西に沈み稜線が茜色に染まる頃は、まさに極楽浄土を思わせる神々しさに包まれる。
「曼陀羅」と表記することもある。

 
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