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奈良の歴史散歩

藤原氏の娘として

 のちに聖武(しょうむ)天皇の皇后となる光明子(こうみょうし)(安宿媛(あすかべひめ))は、藤原不比等(ふひと)の娘として701年に生まれた。716年に同い年の首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)の妃(きさき)となり、聖武天皇即位後の727年に基王(もといおう)を生んだ。しかし、皇子は翌年病のために亡くなった。その5ヵ月後、当時の政権を握っていた長屋王が呪い殺したとの噂を立てられ自殺に追い込まれたのは、藤原氏4兄弟の画策といわれている。

 

仏教への帰依(きえ)

 皇子を亡くした光明子は深く悲しみ、以後仏教に深く帰依するようになった。729年皇后となると、翌年、施薬院(せやくいん)を置いて諸国の薬草を集めて貧しい病人に施すとともに、貧窮者や孤児を救済するために悲田院(ひでんいん)も設置した。また、興福寺五重塔建立の発願(ほっがん)を行ったり、聖武天皇と東大寺建立も発願したりするとともに、国分寺(こくぶんじ)の設立を夫に進言したとも伝えられている。

 

いたわりの心

 光明皇后は、女人も仏を信ずべしとして745年頃法華寺(ほっけじ)を開き、国分尼寺(こくぶんにじ)(法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら))とした。その法華寺に今も残る「から風呂」には、身体中が腫(は)れて臭気に満ちた病人の膿(うみ)を光明皇后が吸うと、その病人の身体がみるみる美しくなり、光明を放って忽然(こつぜん)と消えてしまったという話が残されている。その病人は阿■如来(あしゅくにょらい)であったといわれている。

=しゅく

 

書家として

 正倉院宝物の中には、中国東晋(とうしん)の書家王羲之(おうぎし)の書『楽毅論(がっきろん)』を光明皇后が臨書したとされるものがある。書の最後に「天平十六年十月三日藤三娘(とうさんじょう)」との署名があり、皇后が藤原氏の3女であったことからこう記されたという。 760年60歳にて崩御。夫の聖武天皇とともにその墓は佐保山にあり、平成の世まで1250年の奈良の歴史を見つめてきた。

法華寺本堂

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