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奈良の歴史散歩

大仏開眼に臨んで

 752年、1万人の僧による荘厳な読経が響くなか、聖武太上(しょうむだいじょう)天皇は光明皇太后(こうみょうこうたいごう)、娘の孝謙(こうけん)天皇、多くの貴族らとともに大仏開眼供養(かいげんくよう)に参列していた。生涯の大事業がここに完成したことで喜びもひとしおであった。
 自らを「三宝(さんぽう)の奴(やっこ)」(仏の弟子)と称するほどあつく仏教に帰依していた聖武天皇は、諸国に国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)をつくり、次いで大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))造立を命じた。それは仏教の力を借りて国家の安泰を願う思いからであった。

 

聖武天皇と光明皇后

 聖武天皇は、文武(もんむ)天皇と藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)との間に生まれた。幼いころは首(おびと)皇子とよばれ、724年に即位して聖武天皇となった。
 そのころ政権の座にあった長屋王(ながやおう)が不比等の子の4兄弟による策謀で自殺に追い込まれると、この直後に彼らの妹の光明子(こうみょうし)が皇后に立てられた。しかしその後、平城京に流行した天然痘で4兄弟はあっけなく犠牲となった。

 

相次ぐ遷都と大仏造立事業

 九州で藤原広嗣(ひろつぐ)の乱がおこると、聖武天皇は光明皇后らをともない、伊賀、伊勢、美濃へと行幸(ぎょうこう)をおこなった。聖武天皇は以後、恭仁(くに)京、難波(なにわ)宮、紫香楽(しがらき)宮と遷都を繰り返し、5年後にようやく平城京に戻った。
 その間、紫香楽の地ではじめられた大仏造立事業は、後には奈良に場所を移して続けられた。この事業は行基(ぎょうき)をはじめとする多くの人びとの協力や、大仏に鍍金(ときん)するための金が陸奥(むつ)国からもたらされたことなどにより、ようやく開眼の日を迎えることができた。

 

華開く天平文化

 大仏開眼から2年、聖武太上天皇は唐より来日した鑑真(がんじん)から正式に戒(かい)を授かった。しかし、2年後の756年についに亡くなった。亡骸(なきがら)は佐保山の地に葬られ、遺愛の品々は光明皇太后によって東大寺などに献納され、正倉院宝物として現在に伝えられている。
 聖武天皇時代に華開いた天平文化は、今も奈良の地にひっそりと息づいている。

聖武天皇陵

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