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奈良の歴史散歩

奈良時代の仏教

 仏教で新たに僧となる場合は、戒律(かいりつ)の遵守(じゅんしゅ)を誓う必要がある。神仏に誓うのが「戒」、僧の間での守るべきことが「律」であるが、奈良時代に入ると授戒の制度を整える必要が生じた。

 

栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)の熱意と鑑真の決意

 興福寺の僧であった栄叡(?〜749)と普照(?〜?)は、授戒ができる高僧を招聘(しょうへい)する勅命(ちょくめい)を受け、唐に渡り鑑真のもとを訪れた。鑑真は、14歳で出家し律宗(りっしゅう)や天台宗(てんだいしゅう)を学んだ高僧であった。栄叡らは、最初から鑑真に渡日を懇願したのではなく、弟子の誰かを日本に遣わせて欲しいと望んだが、弟子達は渡海の危険から沈黙、栄叡らの熱意に心を打たれた鑑真は、自ら日本への渡海を決意した。

 

鑑真の功績と松尾芭蕉の名句

 唐の玄宗(げんそう)皇帝は、鑑真らの渡日を許可しなかったため、1回目の出航(密出国)では、栄叡らは検挙され投獄された。渡海だけでなく出国も命懸けであった。以後、たび重なる渡航の失敗と鑑真の失明、栄叡や弟子の死などを乗り越えて、6度目の挑戦で現在の鹿児島県に到着した。翌754年、鑑真は平城京に到着し、東大寺大仏殿の前に戒壇(かいだん)を築き、上皇や天皇ら440名に国内初の授戒を行った。その後、東大寺戒壇院を建立し、ここで受戒した者だけが僧と認められ、日本仏教界の戒律の乱れが正された。晩年、鑑真は東大寺を去って、唐招提寺を開き戒壇を設けた。

「若葉して 御目(おんめ)の雫(しずく) 拭(ぬぐ)はばや」

 仏教だけに限らない医学や建築技術など多方面に及ぶ功績を残したにもかかわらず、鑑真のその波乱に満ちた生涯を詠んだ芭蕉の名句である。

 

鑑真ゆかりの地

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