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奈良むかしばなし

 理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)といえば、平安時代前期の名僧。十六歳で東大寺に入り、真雅(しんが)を師として出家した。真雅は真言宗の祖、空海の実弟である。以来、三論(さんろん)、法相(ほっそう)、華厳(けごん)など南都仏教の研究に励んだ。
 その一方で、密教の修行も怠らず、金剛葛城や大峰山で厳しい修行を積み、修験道中興(しゅげんどうちゅうこう)の祖としても仰がれた。説話集などによると、豪放な人柄であったらしい。
 寛平(かんぴょう)七年(八九五)、大師は、奈良県の中央部、豊かな自然に恵まれた吉野郡黒滝村鳥住に鳳閣寺(ほうかくじ)という真言宗の寺を建てたとされる。吉野山奥千本の山続き、百貝岳の中腹にある。金剛葛城の連山を望む静かな地だ。寺伝では、もとは修験道の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたという。


 その頃、大峰山中の滝に大蛇が棲んでいた。人々に危害を加えるため、山で修行する修験者も少なくなり、霊場は荒れていた。
 そこで、大師は、奈良に住む修験者の先導者であった屈強の箱屋勘兵衛(はこやかんべえ)を連れ、山に登った。そして、法螺貝(ほらがい)を吹いて祈祷すると、その音は峰々に響き渡り、まるで百の法螺貝が一度に吹かれたかのような大きな音を立てた。その音で、大蛇はゆっくりと姿を現した。
 大師は、大蛇を法力で縛り付けた。そして、勘兵衛が、それを斧で二つに斬り退治した。
 それからは、大峰山の道も再開され、山の名も百貝岳と呼ばれるようになった。鳳閣寺には、今も大蛇の頭骨が残されている。
 ところで、箱屋勘兵衛が奈良から鳳閣寺の大師のもとへ通う時は、いつも大師の好物である餅(もち)や飯(いい)などを持参した。大師は勘兵衛のことを戯れに「餅飯殿(もちいいどの)」と呼んだ。それから、勘兵衛の住んでいた町の名も餅飯殿と呼ばれるようになったという。
 この珍しい名前の餅飯殿町は、有名な神社仏閣の多い猿沢池近くにある。今は奈良市内有数の商店街として、多くの観光客でにぎわっている。

 
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