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ふるさと奈良への便り
 
   私の父、相馬正保(まさやす)(大阪大学医学部講師・医師)は十津川村の出身。私は大阪生まれの大阪育ち。しかし、何度も父の故郷を訪れており、弁護士として十津川の山林紛争事件を取り扱ったり、役場の依頼で「世相と法律」等と題して講演させていただいたりもした。
 明治・大正時代の十津川村は、陸の孤島ともいわれ、交通の便はすこぶる悪く、材木を運ぶのにも筏(いかだ)を組んで川を新宮まで下るしか方法がなかった。危険も多かったに違いない。もっとも、大正時代には、ポンポン船が往来し、人を運ぶようになっていた。また、江戸時代末期には、十津川郷士200人余りが京都に常駐し、御所の警備に当たっていた。とにかく、十津川は武勇を重んじるところであったらしい。
 そんな十津川村を大水害が襲ったのが明治23年。玉置吉野郡長が遭難死亡。600戸、約2500人の村民が止むなく北海道に移住し、新十津川を開村した。現在は町となり、人口約7500人。一方、母村の十津川村は、昭和20年当時、約1万人だった人口が、現在、約4100人と新十津川町より少なくなり、過疎化を残念に思っている。
 そもそも、日本国発祥の地が奈良であったといっても言い過ぎではない。奈良から、京都、東京へと日本の首都は移ったのである。遷都一三〇〇年を契機に、奈良が、そして、我が故郷十津川が更なる発展を遂げることを祈って止まない。
 
 

 

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