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記紀に親しむ

〈多彩なエピソード〉
 垂仁天皇(すいにんてんのう)にまつわるエピソードには、本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)と出雲大神の因縁や、蛇身の美女肥長比売(ひながひめ)、常世国(とこよのくに)から「ときじくのかくの木実(このみ)」を持ち帰った多遅摩毛理(たじまもり)など、魅力的な内容が多くあります。そのなかでも、沙本毘古(さほびこ)と沙本毘売(さほびめ)の物語はとくに印象的です。名前が示すとおり、中心となる舞台は奈良市北部の佐保一帯とみられています。
 
〈沙本毘古の反逆〉
 兄・沙本毘古から、夫・垂仁天皇と自分とどちらが愛しいかと問われた沙本毘売は兄と答え、夫の就寝時を狙って殺害することを要求されます。天皇と兄妹はいわばいとこ同士で、兄には自身が皇位を継ぐ目算があったようです。しかし妻はどうしても夫を刺すことができず、妻の涙に気付いた夫は彼女の兄の企みを知ります。
 夫が兄の討伐に向かうと、彼女は夫のもとを離れて兄とともに籠城。妊娠中であった彼女は戦火の中で男児を出産しました。そして、愛しい妻子を取り戻そうとする夫の計略をかわし、赤子だけを託して兄と死ぬことを選びました。
 
〈沙本毘売の物語〉
 夫殺害を迫る兄か、兄と一族を滅ぼす夫か。妹として妻として究極の選択を迫られる沙本毘売は、彼らに翻弄された人生を送ったかにみえます。しかし、この物語の真の主人公は彼女です。兄は妹に自分を愛しいと思うかと問い、夫は自分を捨てた妻の愛を取り戻そうとしました。 権力をめぐる男たちの話は多いですが、ここではむしろ妹であり妻であり母となった女の意志がすべての鍵を握っています。彼女は、権力でも命でもなく情に基づいて生き抜いたといえるように思います。
 
〈『日本書紀』との違い〉
 この話は『日本書紀』では天皇中心の論理で語られます。書き手と想定された読み手とが、記紀の間で根本的に異なると考えられます。その違いを読み比べてみるのも楽しみ方の一つです。
 『古事記』では垂仁天皇は師木玉垣宮(しきのたまがきのみや)(桜井市穴師)で政治を執り、一五三歳で没して菅原之御立野中(すがわらのみたちののなか)(奈良市菅原町)に葬られたとあります。これも『日本書紀』とは違う部分です。
 多遅摩毛理(たじまもり)が命じられて持ち帰った不老不死の木実は間に合わず、彼は天皇陵に実を捧げ、絶叫して果てたと伝えられています。

 

古事記の舞台へ
宝来山(ほうらいやま)古墳
奈良市尼ヶ辻西町にある前方後円墳。垂仁天皇陵(第11代)に比定されている。周囲に満々と水をたたえた濠に浮かんだ美しい姿が、宝来山の名前にふさわしい。古墳によりそう小島(写真右端)は、多遅摩毛理の墓とされる陪塚(ばいちょう)。
 
(行き方)
近鉄橿原線尼ヶ辻駅下車、南西に約700m。

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