県民だより奈良トップページへ


万葉集を訪ねて

 佐保(さほ)は奈良市法華寺町・法蓮町一帯。古くから和珥(わに)一族の有力氏族春日(かすが)氏が住み、垂仁(すいにん)記・紀に登場する沙本毘古(さほびこ)・沙本毘売(さほびめ)もこの地に生まれた。平城京では都の中に入り、内裏(だいり)の東部から外京(げきょう)(東への張り出し部分)北部で、佐保川の北または北西部一帯にあたる。
 奈良時代には大伴氏との縁も深く、佐保の地名と付近の情景を詠んだ歌は万葉集に少なからずみえる。家持(やかもち)の祖父で壬申(じんしん)の乱の功臣であった安麻呂(やすまろ)は、佐保大納言と呼ばれたように平城京では佐保に宅地を賜り、以後、旅人(たびと)、妹坂上郎女(さかのうえのいらつめ)、家持等も住んだ。また長屋王(ながやのおおきみ)の別宅もあった。都の中ながら、奈良山南麓で山近く、高円山(たかまとやま)での聖武天皇の狩の際にはムササビが逃げ込んだともいう。青柳の美しい佐保川には河蝦(かわず)(河鹿(かじか))や千鳥も鳴き、家にいても呼子鳥(よぶこどり)や霍公鳥(ほととぎす)の声が聞こえると歌われる。言葉の綾とはいえ、坂上郎女は聖武天皇への贈歌で、①と表現する。如何(いか)なる機会の歌であったか、自分の振(ふ)る舞(ま)いが田舎(いなか)びていると謙遜(けんそん)している。
 その坂上女郎は初め年齢の離れた穂積皇子(ほづみのみこ)に嫁(とつ)いで寵愛(ちょうあい)を受け、皇子が薨(こう)じた(亡くなった)後には、藤原麿(ふじわらのまろ)の求婚を受ける。その時の相聞歌(そうもんか)が巻四にみえる。郎女のよく知られた歌四首のうち三首に、佐保の境界であった佐保川の景が詠まれている。②では麿の乗る馬は一年中佐保川を渡って来てほしいと願い、③・④では「妻呼ぶ」千鳥を歌い起こしの語として麿を待つ思いを表現する。夕闇の中、千鳥の鳴く音(ね)に混じって馬の足掻(あがき)の音が聞こえてくるのではないかと、じっと耳を澄ます女性の姿が浮かんでくる。
 佐保川の小石のある景、河鹿・千鳥の鳴く音(ね)は、今では失われた遠く懐(なつ)かしい景、声となったというべきか。
CspBspAsp@
万葉集の舞台へ
sp佐保川
奈良市東部の春日山中の鶯(うぐいす)の滝付近を水源とし、若草山の北側を西流し、平城宮跡の南東部で南に転じ、大和郡山市内を流れて、大和川に合流する流域面積約128km2、幹川流路延長約15kmの河川。奈良市内の堤防には桜並木が美しく、人々の憩いの場となっている。
御蓋山
sp
御蓋山
(行き方)
近鉄新大宮駅の北側約600mの佐保川小学校前などに、万葉歌碑散策マップが設置されている。万葉歌碑を訪ねてみるのも楽しい。

このページのトップへ