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記紀に親しむ

〈倭建命の思国歌(くにしのひうた)〉
 倭建命が東征の帰途、伊吹山(いぶきやま)の神を討ち損(そん)じ、能褒野(のぼの)で命尽(つ)きようとして、
  命(いのち)の 全(また)けむ人は 疊薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の
  熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿(さ)せ その子(景行記)
と歌った思国歌には、平群の山が大和を象徴する山としてみえている。
 
〈『日本書紀』との違い〉
 日本書紀の「思邦歌(くにしのひうた)」は小異歌で、景行(けいこう)天皇が九州に熊襲(くまそ)を討ちに出向いたとき、日向国(ひむかのくに)(宮崎県)子湯県(こゆのあがた)の丹裳(にも)の小野で宴(うたげ)し、大石に登って東を望み、都を憶(おも)って詠(よ)んだ歌と説く。
 平群は竜田川沿いに南に開け、法隆寺のあたりも含む地。顕宗(けんぞう)天皇(記)もしくは武烈(ぶれつ)天皇(紀)に討たれた、蘇我(そが)氏と同じ武内宿祢(たけうちのすくね)系の有力氏族平群氏の勢力基盤であった。天武朝の帝紀(ていき)と旧辞(きゅうじ)の記定には平群臣子首(へぐりのおみこびと)が加わっている。
 
〈平群の山の国見〉
 「平群」の地名は倭建命の物語とともに広く知られているが、他に平群の山での薬獵(くすりがり)にふれる万葉集の乞食者(ほかいびと)の歌(巻十六―三八八五)などにみえる程度で、古典文学の世界ではこの地は「竜田山・竜田川」で知られる。ただ死に臨(のぞ)んだ倭建命が慕わしく思い浮べたのは平群の山とそこでの国見(くにみ)(注1)であった。参加者は歌垣(うたがき)(注2)に加わるとともに、生命力充足の呪術的行為として植物を採り、髻華(うず)=挿頭(かざし)(注3)として身につけた。
 
〈悲劇のヒーロー〉
 倭建命は昔、平群の山での国見で熊白檮を挿頭にしたことを想い、「命の全けむ(生命の完全な)人」すなわち部下の若者に、「生命力の強い熊白檮を折りとって髻華にし、いよいよ健(すこ)やかであれ」と呼びかけた。平群の山ははっきりしないが、国見の山としては信貴山(しぎさん)がふさわしい。倭建命の脳裏には大和を代表する山としてこの山が生き続けていたとする。
 古事記に親しみ、この歌にふれた人は誰しも、悲劇のヒーロー倭建命が死を目前にしながら若者を思いやる縁(よすが)とした熊白檮、大和を偲(しの)ぶ縁とした平群の山を、深く心に刻むことであろう。
 
注1 特定の山に登り、自分の家のあたりを見て一年の息災(そくさい)・繁栄を願う行為。天皇の儀礼となった国見は、仁徳天皇が炊煙(すいえん)の立たないのを見て税金の徴収(ちょうしゅう)を三年間止めた話や万葉集の舒明(じょめい)天皇の歌〈巻一―二〉などにみられる。
注2 結婚相手を求める若い男女が、歌の贈答を行って結婚相手を選ぶ集会。
注3 植物の生命力を身体に移す呪術的な採物(とりもの)。万葉集にも数多く歌われる(巻七―一一一八など)。葵祭(あおいまつり)では葵や桂、春日祭(かすがさい)では日影★(ひかげのかずら)を参加者が身につけるのがそれ。正月七日に七草粥(ななくさがゆ)を食べるのも同じ発想。
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古事記の舞台へ
信貴山
開運橋から信貴山を望む
奈良県北西部にある標高437メートルの山。山頂近くには寅の寺として有名な信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)(平群町信貴山)があり、文化庁登録有形文化財の「開運橋」が門前町との間を結ぶ。近くには農業公園信貴山のどか村(三郷町信貴南畑)もある。
 
(行き方) 信貴山朝護孫子寺へは、近鉄生駒線
信貴山下駅から奈良交通バスで約15分。

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