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万葉集を訪ねて

 二上山の歌と聞いて、真っ先に想起するのは、大伯皇女(大来皇女)の詠んだ歌であろう(①)。現実に生きている私は、明日からは二上山を弟に見立てるしかないのか、という内容である。この歌がさまざまな形で世に知られているのは、二上山のことが詠まれているからではない。その背景に悲劇的な出来事が存在しているゆえである。その出来事とは、もちろん弟にあたる大津皇子(おおつのみこ)の謀反(むほん)事件である。
 時は七世紀末、周辺諸国と競うように強固な国づくりに邁進(まいしん)していた天武天皇が亡くなり(六八六年九月九日)、官人たちがその葬儀の準備でバタバタしていたころ、大津皇子が謀反の罪で捕まえられるという異常事態が起こる(同年十月二日)。謀反の詳細は記されておらず、なんと翌日には自害させられてしまう。まさに問答無用の出来事であった。
 そのころ、大伯皇女は伊勢に斎宮(さいぐう)として仕えていたため、弟の死に目にも会えず、飛鳥への帰還命令が出たのは、弟が自害した翌月のことだった。大伯皇女は、飛鳥に戻る途中に、②③の歌を詠んでいる。どちらの歌からも、たとえ飛鳥に戻っても、弟はすでにこの世にいないという嘆きが感じられる。両歌にみられる「なにしか来けむ」(なんのために飛鳥に戻ってきたのだろうか)が、またその心情をよく表している。
 その後、大津皇子は二上山に移葬される。この時に詠まれたのが①であり、①の歌にはここに至るまでの経緯が前提にある。だからこそ、多くの人は大伯皇女の哀惜(あいせき)の思いに共感するのである。
 といっても、大伯皇女は、死ぬまでずっと悲しみに暮れていたわけではない。飛鳥池工房(あすかいけこうぼう)遺跡から出土した木簡からは、工房に物品を注文する大伯皇女の活動的な日常の姿が垣間(かいま)見られる。意外とふっきれるのが早かったと感じるのは、私だけであろうか。
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万葉集の舞台へ
大津皇子墓
二上山の雄岳(おだけ)の頂上付近にある大津皇子墓。しかし、二上山のどこに移葬したかという点は、『万葉集』の記述からはうかがえない。一説には、麓(ふもと)にある鳥谷口(とりたにぐち)古墳かとも言われている。
大津皇子墓
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御蓋山
(行き方)
大津皇子墓へは、近鉄二上神社口駅下車、二上山ふるさと公園を通って約3km。足場の悪い急斜面が続くので、登山に適した服装やしっかりとした準備をしてお出かけください。

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