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記紀に親しむ

① 多遅比野(たぢひの)に 寝むと知りせば
    立薦(たつごも)も 持ちて来(こ)ましもの
          寝むと知りせば

② 波邇賦坂(はにふざか) 我(わ)が立ち見れば
    かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら)
          妻(つま)が家(いへ)の辺(あたり)

③ 大坂に 遇(あ)ふや娘子(をとめ)を
    道問へば 直(ただ)には告(の)らず
          当芸麻道(たぎまち)を告る
 
〈事件の流れ〉
 事件は、難波高津宮での即位祭で、伊耶本和気王(いざほわけのみこ)がお酒を飲んで寝ている時に、弟の墨江中王が宮殿に火をつけたところから始まった。阿知(あち)(倭漢氏(やまとのあやし)の祖先)という人物により救われ、意識のはっきりしない伊耶本和気王は、そのまま馬で運ばれた。意識がはっきりした時には、現在の羽曳野市あたりまで来ていた。
 その時に、①②の歌が詠まれた。②からは、難波高津宮の燃えている様子がよくわかる。それから何とか山越えして大和へ入ったものの、しばらく石上神宮(いそのかみじんぐう)にこもってしまう。
 
〈墨江中王の討伐〉
 弟に焼き殺されかけた伊耶本和気王は、もう誰も信用できなくなり、墨江中王の次の弟にあたる水歯別命(みずはわけのみこと)(後の反正(はんぜい)天皇)にも、謁見(えっけん)を許さなかった。そこで水歯別命は、歯向かう意思がないことを証明するため、墨江中王を討伐しに向かう。こうなると、たいていは大きな戦闘となりそうだが、水歯別命は一切戦闘をしなかった。墨江中王の側近の曽婆加理(そばかり)(隼人(はやと))という人物にうまい話を持ちかけ、墨江中王の討伐に成功したのである。
 ただ、そのやり方が共感できない。なんとトイレの最中で、何も抵抗できない墨江中王を曽婆加理が矛(ほこ)でさしたのである。しかも、話はそれだけでは終わらない。水歯別命は、自分の君主を殺すような輩(やから)は信用できないとして、酒を飲んでいる最中の曽婆加理を殺してしまう。話はこれで一件落着となるが、無抵抗の者を殺すという、なんとも後味の悪い話である。
 
〈地名と峠道〉
 この伝承中には、地名にかかわる興味深い内容が盛り込まれている。一つは、近(ちかつ)飛鳥と遠(とおつ)飛鳥の地名起源で、河内と大和の双方にある飛鳥を呼び分けた話。河内の近飛鳥(現在の羽曳野市東部)と大和の遠飛鳥(現在の明日香村)の「近」「遠」は、難波宮からの距離とみられている。
 もう一つは、河内大和国境の峠を越える時に出会った少女の話。反乱伝承中にしばしば情報提供者として現れる少女は、ここでは敵のいない安全な道を告げた。その時に詠まれた歌が③である。伊耶本和気王は、少女の助言のおかげで、大坂越えを避けて、当岐麻道(竹内峠越え)から迂回し、石上神宮に辿り着けたのであった。石上神宮に入った理由は判然としないが、古代では、危機が迫った時に逃げ込む場所としていくつか例がみえる。不可侵の神域ゆえであろうか。詳細はわからない。

 

古事記の舞台へ
竹内峠(たけのうちとうげ)
竹内峠付近の写真。ここから奈良側に下りれば、古代の横大路(よこおおじ)に接続し、桜井まで続くが、横大路が本格的に整備されるのは、推古朝以降のことである。はたして伊耶本和気王は、石上神宮までどの道を通って行ったのだろうか。
 
(行き方)大阪府南河内郡太子町と葛城市との府県境にある。峠の南には国道166号線が通っている。電車では、近鉄南大阪線の磐城駅、当麻寺駅、上ノ太子駅から徒歩。

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