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〈布留(ふる)と経(ふ)る〉 「石上」という地名を聞いて私がまず思い浮かべるのは、①の万葉歌です。 石上の布留の神杉のように神々しく年とってしまった私が、またまた恋に逢ったのかなあという歌で、石上神宮(いそのかみじんぐう)のある地域名である布留(フル)が、年を経る(フル)という意味のフルに掛けて表現されています。石上神宮にそびえる神聖な神杉のイメージが、年齢を重ねることと恋心の強調とに重層的に使われています。 いわゆる序詞(じょことば)と呼ばれる表現技法ですが、序詞と言っても単なる序ではなく、主な文脈にイメージを重ねて表現に深みを加える働きがあったといえます。 この歌の作者名は伝わっていませんが、突然訪れた恋の奔流(ほんりゅう)に驚きながらも身を任せるという、教養も分別もある魅力的な大人を想像させます。今も昔も、恋に落ちる瞬間は年齢や状況に関係なくやってくるものかもしれません。 〈柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)と石上神宮〉 石上神宮は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る布都御魂大神を祀る古社で、布留山の西北麓にあります。国宝の七支刀(しちしとう)が伝えられた場所であり、禁足地は剣先状の石瑞垣(いしみずがき)で囲まれています。 ②の歌は、神に仕える乙女たちが神を迎える袖を振る(フル)――その布留(フル)山の社(やしろ)の瑞垣が年久しいように、長い年月をずっと恋いつづけてきたことだ、私は、という歌です。 この歌を詠んだ柿本人麻呂は、特徴のある地名の使い方でも知られています。ここでは、石上神宮のある布留山の名を、年若い女性が袖を振る動作にかけて表現しています。そこからは二重写しのように、神聖な山や垣の表現から連想される女性の美しさや、人間の尺度を超える長さ強さで抱いてきた恋心の強調がうかがえます。 〈石上山〉 斉明天皇(さいめいてんのう)(在位六五五〜六六一年)は、石上山の石を切り出して両槻宮(ふたつきのみや)の造営に用いたといいます。大量の石材を船で運ぶために、石上山と飛鳥とを結ぶ運河を掘らせ、大規模な土木工事に呆れた当時の人々はそれを「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と誹(そし)ったと『日本書紀』に記録されています。 このとき運ばれたとみられる天理砂岩(てんりさがん)は、現在も明日香村岡の酒船石(さかふねいし)遺跡の一隅で見ることができます。 |
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