今回は、ちょっとお話が難しくなりそう。でも、最後まで聞いてね。
奈良盆地のほぼ中央、磯城郡田原本町(しきぐんたわらもとちょう)。古代史ゆかりの地である。今から一三〇〇年前、この地出身の太安万侶(おおのやすまろ)が日本最古の歴史書『古事記(こじき)』を編纂(へんさん)した。
そして、少し南にある秦庄(はたのしょう)。古代の渡来系氏族の秦(はた)氏が多く住んでいたところである。
かつて、飛鳥に都があった時代、聖徳太子は斑鳩(いかるが)に斑鳩宮(いかるがのみや)(今の法隆寺)を造り、学問と仏教の研究に没頭した。太子が政務のため斑鳩から飛鳥まで黒馬に乗って通ったのが太子道(たいしみち)(筋違道(すじかいみち))。秦庄は、その太子道と、古代の官道である下(しも)ツ道(みち)の間に位置している。しかも穀倉地帯(こくそうちたい)。当時は、非常に重要な地であった。
秦氏の族長で、聖徳太子の側近でもあった秦河勝(はたのかわかつ)が、大化三年(六四七)、秦庄に秦楽寺を創建したと伝えられる。その秦楽寺を、平安初期の大同二年(八〇七)、真言宗の開祖、空海が訪れ、本堂の前に阿字池を造営したとされる。阿字池は梵字(ぼんじ)の「★(ア)」を象(かたど)った池のこと。「★」は万物の根源を意味する。
空海はまた、当寺で比較宗教論の『三教指帰(さんごうしいき)』を著(あらわ)したとも伝えられる。だが、これは疑問。
ただ、この時、阿字池にすむ蛙の鳴き声が騒がしく、空海が叱るとピタッと止んだという。むかし話は、実はこれだけ。
国道二四号を走り、東の三輪山と西の二上山に挟まれたあたり、国道を西に折れ、民家の並ぶ細い道を曲がり曲がると、秦楽寺の中国風の白い門が迎えてくれる。
本堂の前には大きな阿字池。正面の小島に「★」の字が彫られた石標が立つ。今、境内のほとんどを占める池の大きさから、かつての寺が、いかに壮大であったかが想像できる。
池の周囲に、花菖蒲の剣のような葉が緑色に伸び、池畔を彩っていた。初夏、白、黄色の花が咲く。蛙はいるのだろうか。副住職のお話では、蛙は、今は空海のお叱りも忘れ騒がしく鳴いている、とのことである。 |