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記紀に親しむ

【東征譚の梗概(こうがい)】
 神武天皇は周知のとおり、九州の日向(ひむか)で生れ、国の中心大和を目指して東征(とうせい)する。生駒越えを試みたものの長髄彦(ながすねひこ)に阻(はば)まれ、兄 五瀬命(いつせのみこと)を失う。日神の子孫らしく日を背にして戦おうと熊野、吉野へ迂回(うかい)し、宇陀、磯城での戦いに勝って国中に入り、葛城・添等も平定して橿原宮で初代天皇として即位する。
【名前と伝承の形成】
 記は神武天皇の本名を若御毛沼(わかみけぬ)命とし、神倭伊波礼★古(かむやまといわれひこ)命を別名とするが、紀はこれを本名とする。意味は、「神である大和磐余(やまといわれ)の男」である。九州で生まれたのになぜ大和の地名を名前にしたのか。欠史八代と呼ばれ、系譜だけしかない記・紀の綏靖(すいぜい)天皇から開化(かいか)天皇までと神武天皇の時代の伝承は、後で付加されたとする説が有力である。イワレヒコの名が定まったのも、磐余に宮を設けた継体(けいたい)天皇の時代以後であろう。神武天皇のように、地方から大和に入って即位した天皇は、他に応神(おうじん)天皇と継体天皇がある。継体天皇は、応神天皇の五世の孫(そん)で武烈(ぶれつ)天皇で絶えた血統を守ろうとする大伴金村(おおとものかなむら)に求められて即位した。越前(えちぜん)から大和入りし、仁賢(にんけん)天皇の皇女手白香(ひめみこたしらか)と結婚したものの、大和周辺に宮を営み、二〇年近く経て磐余に宮を設けた。神武天皇と応神天皇の大和入の物語は史実としての継体天皇の大和入をモデルとして形成されたものと考えられる。
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【橿原宮設定の意味】
 大和に入った神武天皇は畝火山(うねびやま)の東に宮を設けて即位し、陵(みささぎ)も東北に営む。以後欠史八代の天皇にはその背後地、葛城地域に宮や陵を設ける天皇があるので、これを葛城王朝とよぶ人もある。葛城氏が勢力を張った地域であったが、天皇の私有地、御県(みあがた)の一つは葛城にもあった。葛城一族である蘇我馬子(そがのうまこ)が勢力を振った推古(すいこ)天皇の時代、彼は父祖(ふそ)の地なので葛城の御県を譲って欲しいと願い出ている。推古天皇は直ちに断っているが、天皇にとっても葛城は父祖の地であると主張する意味ももつのが、神武天皇の葛城平定と橿原宮即位および欠史八代の天皇の宮が葛城にあったとする伝承の一面なのであろう。
【皇后選定伝承の意味】
 神武天皇は橿原での即位後、皇后とすべき女性を求める。選んだのは大物主神(おおものぬしのかみ)(記)もしくは事代主神(ことしろぬしのかみ)(紀)が摂津(せっつ)の三嶋溝★神(みしまみぞくいのかみ)(茨木市)の娘に生ませた比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)で、彼女は三輪山麓の狭井川(さいがわ)の端(はた)に住んでおり、大物主神を祭る巫女(ふじよ)とみられる。この神武天皇の皇后選定の物語は、大物主神の巫女との結婚によって大和で最も重要な神の祭祀(さいし)も手中に収めたと語る意味も担(にな)うのである。
 ここでは触れなかったが、神武東征譚には史実の反映を認める説もある。如何であろうか。
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古事記の舞台へ
畝傍山(うねびやま)
初代の天皇である神武天皇が、橿原の宮を設けて即位した地。古事記・日本書紀・万葉集では、「畝火山」と記された。
香具山・耳成山とともに大和三山と呼ばれ、平成17年に国指定名勝に登録される。畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を持つところからつけられたという。
その畝傍山から500mほど北側に神武天皇陵がある。
(行き方)神武天皇陵へは、近鉄畝傍御陵前駅から北西へ約900m。
 

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