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記紀に親しむ

 第二代綏靖天皇の即位の話は神武記にみえます。
 神武天皇は日向で結婚して多芸志美美命(たぎしみみのみこと)など二人の子供がいましたが、大和入の後、前回触れた大物主神の娘、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)を皇后として迎えたのでした。皇后にも三人の子供ができます。
 神武天皇崩御の後、多芸志美美命は若い継母、伊須気余理比売を妻に迎えました。もちろん、皇位継承を狙ってのことでした。しかし、皇位に即(つ)くには伊須気余理比売の設けた三人の皇子が邪魔になりますので、殺害を企てます。これを知った伊須気余理比売は思い患(わずら)い苦しんで、三人を助けるために、危急(ききゆう)を知らせる歌を歌いました。その歌は下記の二首でした。ここに「風が吹こうとしている」は多芸志美美命が異母弟の殺害を企図していることの暗示、「畝火山で雲の動きが活発」・「木の葉が騒ぐ」はその準備が活発なことの暗示ですが、雲の動きのことはピンときません。万葉文化館に通っていた頃、雨の時など常々機会があれば観察したのですが、畝傍山ではこうした現象はそうはありません。それ故、特別のことを知らせる意味を担う表現になるのでしょう。
 皇子たちは、母の歌の暗示を理解する智慧(ちえ)をもち、その知らせで庶兄多芸志美美命に立ち向かいますが、兄神八井耳命(かむやいみみのみこと)は手足が震えて殺せません。そこで末子神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)が武器を取って殺し、そのうえで兄神八井耳命に即位を勧めます。しかし、兄は敵を倒した弟に位を譲り、自らは忌人(いわいびと)になると誓います。神八井耳命は記を編纂した太朝臣安萬侶(おおのあそんやすまろ)の多氏など十九氏の先祖となったといいます。
 即位した神沼河耳命は綏靖天皇となります。以後開化天皇まで八代の天皇の記における記述は宮と墓の場所を含む帝紀に相当する系譜記事だけで、系譜にまつわる伝承、いわゆる旧辞は記されません。そこで、欠史八代と呼ばれ、欽明朝頃の架上説も生まれます。

 

古事記の舞台へ
畝傍山
天香久山・耳成山とともに大和三山と呼ばれる。周囲には、初代天皇の神武天皇から四代天皇の懿徳(いとく)天皇までの天皇陵がある。畝傍山から900mほど北側に位置するのが綏靖天皇陵。歌に詠まれた狭井川は、三輪山から流れる小さな川。狭井川の名前は、神武天皇が皇后の伊須気余理比売を訪ねてこの辺りに来た際に、佐韋(さい)(山百合)が咲いていたので、「佐韋川」と名付けたことが由来とされる。
(行き方)綏靖天皇陵へは、近鉄畝傍御陵前駅から北西へ約1.2km。
 

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