第3回奈良県教育懇談会討議の概要

◇日時     平成13年2月6日 13:30〜16:00

◇場所     奈良市法蓮町757−2「春日野荘」(畝傍の間)

◇発言のポイント

 I 意見交換(幼児教育について)

 II 基調提言(義務教育について)

  1. 義務教育とは
  2. 生きる力とは
  3. 学力と学力低下
  4. 心の教育
  5. 学校の役割

◇次回懇談会  平成13年4月19日(木)

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◇議事概要

I 意見交換(幼児教育について)

【会長】  前回、基調提言をいただいた幼児教育について意見をいただきます。

 

 (子どもの幸せを第一義に、親の楽しみは二の次に)

【委員】  子供というのは、はっきり言いまして、親の責任といいますか、親の生活をしていく力、これが子供たちに直接返されてきているように思います。

 入学してくる子たちが、その親の保育というか、養育の仕方によりまして自分の力を学校で発揮できない、できる、そういうことに直接かかわってくると思います。

 昔の親が子供たちにどういう教育をしたのか、この辺はわからないわけですけれども、今は大人がやはり自分の生活をまずエンジョイするというか、楽しむというか、自分も幸せにならなければというのを第一義に考えて、子供は第二義的な扱いをしているように感じて仕方がありません。やはり親は、こんなことは私の口からもう申すまでもありませんが、自分の楽しみはこれはもう二の次にして、子供の幸せ、これをまず第一義に考えるべきです。

 学校のほうでは家庭教育学級とか、あるいは、授業参観の後の学級懇談、あるいは全体の教育講演会などをたびたび計画をするわけです。しかし、そういう場に出席していただける人は少ないです。また参加していただける人は、ふだんそういうことを勉強されている方か、考えておられる方、悩んでおられる方でありまして、本来、参加していただきたい人には参加していただけません。

 そういう親を持った子たちを学校はどういうふうにして育てていくか。学校では、親ができないからいたし方ないんだというのではなく、親のできない分も含めてというか、親ができるできない部分を含めて子供たちをどのように養育していくか、これを考えなければならない。それで情操面において音楽、読書、それからもう一つは、やはり厳しいしつけというところも忘れてはならないと思っております。

 子供たちはやはり純粋ですから、学校の教員側、教師側のやはり考え方あるいはしつけの仕方によってある程度どうにでもなると思います。

 返事はきちっとする、それから、集会・朝会等のときにはやはりきちっと立たせる。

もっと胸を張って堂々と歩きなさい、前かがみになって歩いてはいけないということしつけとし徹底していこうと思っています。

 ところで10時になってもまだ外へ親が子供を連れ出して歌を歌いに行ったりしているというのを聴きましたが、これはもう私も現に目撃をいたしました。10時を過ぎているのにお母さんと一緒に歌を歌っている。この子たちはあす学校でどういう状況で学習に取り組めるか、ちょっと大変恐ろしいというか、悲しいというか、寂しい気持ちになったこともございます。

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 (幼稚園を通して社会参加を、親も子も成長のチャンス)

【委員】  私、自分自身の子どもが幼稚園のときのことをいまだにお母さん方によく話をします。私自身、仕事もしていましたけれども遊ぶだけ遊んで、結婚しまして、家庭に入りますと子供をもうけて、家庭とその周辺だけの自分の小さい社会ができあがります。その中から、初めて親も子も幼稚園教育の中に放り出される。それまではちょっとしたお稽古教室は行きますけれども、子供がピアノレッスン等に行くところの仲間の何人かの儀礼的な社会、季節のごあいさつをするぐらいのつきあいです。ところで初めて幼稚園という広い場に入って、先生がいて、それから横のつながりとして同じような立場のお母様方と知り合いになれて、その中で自分自身も自分の子育てに対して、他者との比較で相対的に評価できる初めての親の年代です。

 それで、幼稚園のときに、保護者会とか交通安全母の会だとか、いろいろな会のときには積極的に参加する必要があると思います。それが自分の社会へ出る社会参加の第一歩であり、ともかく親も子もそこから社会の一員としてともに育っていくチャンスがあるのだと。

 私が、最近、思いましたのは、通園バスのグループ同士だと思われる方たちが、ファミリーレストラン等でよくお話をされています。その話を聞いていると、完全に井戸端会議的なもので、進歩のある話題ではありません。このような様子を見て、初めて保育園、幼稚園へ行かれたときのお母さんの子育て支援という部分が何がしかの形であれば、例えばお母さん方は異年齢で、このごろ高年出産の方も多いし、20代の方もいらっしゃる。そういういろんなお母さんの中に、地域の中で何かをなさっている方だとか、子育てが終わった方たちにお話ししていただければと思います。このような支援策を、一つの学校では大きすぎるので、幼稚園とか保育所という小さなコミュニティーの中で立ち上げていただければ、行政サイドでそういうようなことをしていただけるような形があれば、もう少しお母さん方の話も実りのあるものになるのではないでしょうか。

 何かそういう策がこういうところで提言できて、行政を動かせるような形になればなというのをよく考えます。

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  (早急に地域の持つ教育力の再構築を)

【委員】  昔から私自身がいろいろ経験してきた、地域の親の役割というようなことをお話ししたいと思います。何がきっかけでこう思ったかということですが、1カ月ほど前、近鉄のある駅で人を待っていました。そうすると女生徒二人を含めた五、六人の高校生が、私の近くで地べたへすわり込み始めました。そのうち1人の女の子がたばこを出して吸いかけました。これは注意すべきだと思って、そばへ近づいて、話しかけたら、じろっと見て、かまわないで欲しいみたいなことを言うんですね。これは少し危険な状況かなと思ったのですが、なお高校生たちに話しかけたら、吸いかけたたばこを消しまして、すっと散って行きました。

 そのようなことがあってから、私が小さいときには、何かしたときに必ず近所の人たちに怒られたということを思い出しました。例えばよその柿を取りに行ったら、必ず叱られました。叱られながらも、どこか温かみがあって、後で素直に反省できるような何かが残ったような、そんな気がしていました。

 どこかの人、あるいは、もっと大きく言うと、世間あるいはだれかが叱るという形で親からいろいろと話をされながら大きくなってきて、これはこんなことをしたらいろんな人たちから怒られ、しかられるという、そういう感覚を持って大きくなってきました。

 ところで、今でも各地には祭りがあります。その中の子供の通過儀礼としての祭り、子供が無事に育ってくれるように、健康に育ってくれるようにということで、墨つけ祭りとか、あるいは砂かけ祭りとか、あるいは何々祭りとかというのが、奈良県でもたくさん伝統行事として残っています。本当に地域の人たちが子供にかける思いが、祭りだけの行事化だけに終わっていないのかと最近は気にかかっています。また地域では子供会があったり、あるいは、私達のときは青年団があって、そんな地域的団体の中で、悪いこともいいことも教えてもらい、人と人との関係というものをどうしたらいいのかということを教わってきたように思います。

 ところが、今、いわゆる広い意味での世間というもの、別な言い方をするならば、地域の教育力と言ったほうがいいかもわかりませんけれども、もうなくなりつつ、あるいはほとんどなくなっているのかというほど地域のほうから何も構われないし、あるいは、何をしていても何も言われないという状況になりつつあります。

 何故こうなってきたかと言いますと、例えばパソコンなどの情報機器の操作にみるように、子どもたちが関心を持っている事柄について大人が子どもに教えることができない。大人たちの経験や知識が、子どもたちにとって役に立たない、あるいはそのように感じるということ、つまり、本当に子供に何をどうしたらいいのかと、大人側がまずとまどっているというのが一つ。同時に、先ほどの大人側がもう自由に自分たちの楽しみばかりをしているという、その辺にあるのだろうと思います。

 そのことを思いますと、何とかもう一度、いわゆる家族よりも世間がこわかった時代、今失いつつある地域の教育力と言われる世間さま、そういうものがどういう形でつくれるのかとつくづく考えますが、それは困難な気がします。大人は今の子供たちよりも最近の文化についてはもう全く遅れておりまして、教えようということはできない。本当に無力な、非力な、そんなことを思いながら、しかし、叱ることは叱る、やろうという気持ちも持っているわけです。私は、これからの将来、地域で子供らに何かひとつ叱れるような、そういう部分をつくり上げることができないだろうかと考えています。

 愚痴ばかりで、新しく何をしようかということについての提起がなかなかできないということで申しわけなく思いますが、最近の経験から少し考えていましたので、お話し申し上げました。

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 (現在の家庭状況では体験できないものを保育園、幼稚園で)

【委員】  幼児教育について、観点4(子育て支援−保育所・幼稚園に期待されること−)、観点5(保育所〜幼稚園〜小学校の連携について)というようにおっしゃったので、私も同感でありまして、やはり幼稚園の幼保、あるいは小学校との関係等の、いわゆる教育制度の問題。それからもう一つは、先ほどから議論になっています、どういう教育をするか、その2点だろうと思うので、観点4と観点5をしっかり議論もしていきたいと思うわけです。

 私が幼稚園の先生と話をしておりまして気になるのは、支援という言葉を使うことです。ここでも使われていますが、幼稚園へ来た子には支援でなくて指導ではないかと。指導ではなく支援であるということで、先生方が何かちょっと一歩引き下がって、そして、学校で集団として預かっていながら、後ろから押していったらいい、支援をしたらいいというような、そういう一歩引く姿勢が、子供たちにいつの間にか集団の秩序なり、規律なり、やるべきことをやらねばならないということを失なわせているのではないかと考えています。

 ある地域では3歳児の保育をやっています。3時までの全員の延長保育をやっています。3歳、4歳、5歳と3年間教えますと、以前の2年間の保育と比べますと、やはり相当集団生活の上で身についたもの、あるいは考え方、あるいは絵画制作とかそういう面でもよほど大きな成果があるという評価も聴いています。それから、延長保育は預かり保育でなくて全員ということで、午前の授業との関係を考えながら、異年齢間の集団生活といいますか、クラブ活動的なことをやっています。家庭で子供の人数が非常に少ないので、できるだけそういう欠けた面を子供たちにやっぱり経験させてあげるというような機会を多くする意味で有効であると思います。

 それから、最近、国のほうの施策で気になることは、満3歳児保育という言葉が使われていることです。満3歳児保育、いわゆる満3歳になった段階で保育をしていくという制度ですが、満3歳になった都度入園させていくことについては、集団生活あるいは指導上の問題等、多くの問題を含んでおりまして、やはり学年制を中心とした保育がいいのではないかというように感じています。制度的に解決していくべき問題、指導者の側からもっとはっきりした指導という視点で、3年間子供にも親にもしっかりと指導をする先生、そういうようなことが必要ではないかということを考えています。

 家庭で欠けた問題で、手づくりのことであるとか、あるいは、お年寄りと触れ合うというようなことでは、お年寄りと一緒に風呂に入れたり、あるいは公園で凧を制作し、凧揚げ大会をやったりと、今どうしても欠けているものを考えながら、それを導いていく必要があるんじゃないか、そんな感じがしております。

 以上です。

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 (保育園、幼稚園では基本的な社会性についてのしつけを厳しく)

【委員】  私、幼児教育というのは、自分が子供にしたのは随分昔のことなんで、最近のことはよくわからないんですが、先だって東京都の教頭の皆さんとお話をしていたときに、小学校1年生を担当して大変困ったと。席に座れない子がクラスに何人もいて、座るようになるまでに何カ月もかかるというお話を聞いて、正直言ってびっくりしたんですが、それで、教育者の多湖輝先生とその話をしていましたときに、特徴ある教育を幼稚園に持ち込んだときからそれがひどくなったと。彼も校長先生をしていたので、非常にその辺を感じていたらしいんですが、したがって、ぜひ保育園とか幼稚園レベルでは、ほかの委員も言われましたけれども、基本的な社会性についてのしつけについては厳しくやると、放任しないという姿勢は必要じゃないかという感じはします。基本のところはやっぱり、教える側が、この子供たちをどう育てたいかという志があったら比較的強く行けるのではないかと思うのですが、こういう子供たちを育てたいという基本のところをきちんとして、退かないような先生教育をする必要があるのではないかというふうに感じております。

 県が挙げて取り組むのであれば、私はそういう基本的なことを大事にする学校をつくっていくことは大いに可能ではないかと。我々大人の姿勢によって変わっていくなということを強く感じました。

 それから、企業において、以前はかなりしつけみたいなことを非常に丹念にやっていた記憶があります。例えばその会社の歴史であるとか、社会生活を送るためのいろんなことを厳しく教えられましたし、また、教育期間が一応終わった後も職場の中でオン・ザ・ジョブでしつけを受けた記憶があります。最近、企業の中でのしつけの部分が少し弱くなっているという感じがしております。新たに父親になったり母親になる部下がいますので、その辺はもう少し気をつけてしつけをしなければいけないなということを感じております。

 以上でございます。

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 (保育園、幼稚園の教育においても、両性の視点が必要)

【委員】  大人の姿勢により子どもが変わるというか、環境を変えれば子どもたちは変わります。一例として、ある幼稚園で男子の教員を入れました。これはものすごい成功でした。というのは、女の先生自身も反省しておられるんですけれども、子供が何か戸惑ったりしても、自分で考えさせるんでなくて、どうしたの、こうしたの、何したのということで立ち入り過ぎる。ところが、男の先生は、自分で考えなさいというような調子です。また男子の先生は幼稚園の廊下を肩ぐるましたりしまして、活気が出てきます。冬でも半袖を着てくる子が多くなったりして、元気です。だから、幼稚園教育はもう女子の職場ではなくて、男性を半分ぐらい入れたら大分変わると、そんな感じがいたします。一つの例ですけれども。

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 (女性の社会進出としつけ。専業主婦の役割の再検討)

【委員】  親のしつけの話ですが、違った観点から一言申し上げたいと思います。ユネスコの女性の地位の代表を務めたことがございます。女性の地位の会議で日本政府代表になるのは本当に損な役回りで、とにかく日本は女性の地位を非常に軽んじているというので、みんなから総攻撃を受けるところでございます。

 その会議で、発言した内容というのが、実は子供のしつけが非常に大切だ。本当はしつけというのは非常に大変なもので、教育というのは、育児ほど大変なことはない。だから、本来、社会へ出て働くべき人が日本では大部分家庭の専業主婦をやって、子供のいわば育児に取りかかっている。だから、そういう意味で、主婦は確かに社会的な地位というのはサラリーの面からいいますと決して高くはないということはあるけれど、子供の育児という次世代の国民をつくっていく仕事を、主婦に任せないとしたら、一体だれに任せるべきだというのだと反論いたしましたら、アジアの連中がみんな拍手。中には、後でドイツの人も来まして、「おまえいいことを言ってくれた」といってやってきたという経験がございます。

 そこで、ぜひご意見をお伺いしたいんですが、女性の社会進出というのがいいのか悪いのか、専業主婦というのが本当に悪いのか。いわばアメリカ的にあまりにも我々は偏しているのではないか。この辺を一体どう考えるか。先ほどもいろいろなお話が出てまいりました。親がしつけを厳しくするということは、本当は片手間ではできないことだろうと思います。そうすると、社会進出との関係で、一体どういうふうに考えたらいいんだろうか。もし日本の文化歴史というものをしっかりと子供にも伝えていくということを考えれば、実は変な社会進出よりも専業主婦のほうがはるかに大切だという観点も当然あり得るわけです。この辺を皆さんどういうふうにお考えになるのか、ぜひとも皆さんのご意見をお伺いしたいというふうに思っております。一言でよろしいのでお願いします。

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  (子育てに対する社会的理解を)

【委員】  家事労働の中で育児にかかわる時間が大変な労力で、それがなければ次代の子供を育てられないということが世間的に認められたら、家庭に残る人はもっと増えると思います。女性のそういうところを認めてもらって、老後のこと、年金や税金のことをもっと考えてもらえることができたら、子育ても自信を持って行えると思います。ここで言っても仕方がないですけど、一生懸命してきた中で、何か認めていただけたらという思いがあります。

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 (一時保育の充実、子どもとの遊び方、接し方を教える地域に開かれた保育園、幼稚園を)

【委員】  専業主婦は大事な教育になっているという点で、日本の中で女性の地位は低くないというふうなことを世界で発言されたということで、それも一つの考え方ではあると思います。しかし、逆に考えますと、次世代を担う子供の教育を一方の親、常に2人いるペアレンツのうちの一方である女性だけが担うというのはやはりどこかに破綻を来す。例えば先ほど話に出た幼稚園で男の先生が入ったら、途端に子供が活性化した。それはやはり女性の視点だけで今まで行ってきた幼稚園教育に男性の視点が入ったことによって、より効果的な教育ができたというまさに実例だと思います。

 また、実は今、男女共同参画基本法に基づきまして、奈良県では「女性プラン21」というのを作成されていますが、これは社会のいろいろな意思決定機関に、男性だけの視点ではなくて、女性の視点も加えていこうということで、その中に教育、子育てというものを明確に明記していまして、子育てというのは母親だけがやるものではない。では、だれがやるのか。社会で担っていくべきである。そしてもちろん、家庭の中では、母親だけではなくて、父親にも参加してもらうという、あくまでもプランの上ですけれども、明記されております。それに基づいてこれからどのような施策がされるかなというのは私たち一般市民としても楽しみにしています。ですから、やはり男性の視点というのは、大事なことだと思います。                 

 子供に目配りができるという意味で、専業主婦は確かに時間的ゆとりがあるかもしれませんので、そういう意味ではいいかもしれないですが、では、働いている母親は目配りしていないのかということになると、時間の濃密さという点で、逆に子供とかかわる時間が少ない分、その間は一生懸命かかわろうという気持ちがあるのではないかと思います。

 それとは別に、これは今回、幼児教育、幼稚園・保育園教育ということでしたので、考えてきたことなんですが、最近ニュースで幼児虐待をここ何カ月かよく耳にします。ニュースで出るのはもう死亡した例ばかりですけれども、ということは、ニュースに載らない、死亡までは至らないけれども、ほんとうにひどい虐待を受けている子供たちというのが昔に比べてずっと数値的に増えていると思います。私は正確な数字を知りませんので、これは予測ですが。では、今のお母さんが昔のお母さんに比べて急に凶暴になったのか、粗暴になったのかというと、決してそういうことはないと思います。では、なぜなのかといえば、それはこの社会、世の中においては、子育ていうものがとても大きなストレスになる、そういう世の中、社会のためではないかと思います。

 昔、例えば私が子供の時代でしたら、母が一人で私を育てるということではなかったように思います。近所のおじちゃん、おばちゃんもいましたし、うちの父や母の実家というのもすぐ近くでしたので、おじいちゃん、おばあちゃんもいました。おじさん、おばさんもいました。そういった社会の中で、親戚がたくさんいる中で、近所のおじちゃん、おばちゃんがいる中で育ちましたので、うちの母が一人で私の育児を背負い込んではいませんでした。そういう意味ではとてもゆとりがあったんだと思います。

 逆に、ゆとりがあれば、愛情も湧いてくる。やはり親と子が1対1で狭いアパートの中で育児を続けるというのはとても閉塞感のあることで、実は私には子どもが3人いますが、一番上の子どもが初めて産まれたときにこの閉塞感を味わいましたので、とてもよくわかります。

 当時、東京に夫の転勤で生まれたばかりの子供を連れて行きました。周りにはだれも知った人がいません。遠く離れているので、実家から人を呼んでくることもできません。ということで、ほんとうにアパートと公園、スーパーぐらいしか行きませんでした。当時、密室育児という言葉が言われていましたので、その言葉から、「あっ、これは密室育児だ。私は危ない状況にいる」とわかりましたので、自分で手当をして、私は専業主婦をそれまでやったことはありませんでしたし、「あっ、これはやっぱりいけない。もっと社会に目を向けて、自分が安定しなきゃ」と思って仕事を始めました。ですから、子どもが11ヶ月のときから保育所に預けて、また仕事を再開したわけです。私はたまたま密室育児という言葉から気がついたからよかったですけれど、気がつかないでどんどん泥沼に落ち込んでいったお母さんが、気がついてみたら、しつけのつもりでたたいていた子供がぐったりして死んでいたということになるのではないかと思います。ですから、そういったお母さんを支援する立場で、これは指導ではないと私は思います。指導でしたらば、母親は受けつけないと思います。「あなたのやっていることは間違っています。だからやめなさい」というふうなことでは、人の心にそういうアドバイスは届かないと思いますので、やはりそういうヘルプ、手助けという形で何か保育園、幼稚園ができたらと思います。

 子育て中のお母さんが、よくおっしゃいます。子どもが生まれてから一度も美容院に行ったことがない。つまり、子供を置いて二、三時間美容院に行くことすらできないと思い込んでいらっしゃる。ご主人の休日に頼んで行けばいいと思うのですが、もうできないと思い込んでおられる。日常生活でトイレにすらゆっくり入れないとおっしゃる方もいます。幼い子供はお母さんの姿が見えないと探します。ですから、変な話ですが、若いきれいなお母さんが、子供に見えるようにトイレのドアをあけたまま用を足している。ほんとうにそういう感じで24時間拘束されているというふうに感じてしまいますと、どうしても可愛いんだけど育児が楽しめないということがあります。

 ですから、何年か前の厚生省の白書の中のアンケートで、「育児が楽しいですか」という質問に対する答えに、「はい」と答えた率が一番少なかった国が日本でした。さもありなんかなとも思いました。我が国では、それほど母親だけが育児に従事しているということが大きくあるのではないかと思います。

 その対策として、今、普及してきている一時保育の制度、概ね現状では、それを利用できる人は働いている親でなければいけません。ですから、ほんとうに育児で疲れて、ちょっと休みたいといったときにはだめです。。ですから、そういった保育所をもう少し広げていただいて、理由のいかんを問わず、一時保育を受け入れるというような形になればよいと思います。また子育て中というのは社会から隔絶され、世の中から取り残されていってしまうという不安もあります。そういう子育て中にもっと勉強したいと思うお母さんもいらっしゃる、しかしベビーシッターに1時間2,000円払って勉強に行くのは家計にも響くしとかいろいろ考えてしまいます。

 そこで、そういったときに気楽に使える一時保育というのがあればいいなと思います。

 次に幼稚園ですが、実際、子供との遊び方がわからないというお母さんがおられます。どのようにして子どもと遊べばよいのか。そういう点を、例えば地域に開かれた幼稚園ということで、別に幼稚園の就学以前の1歳児、2歳児のお母さんでも、みんな子供と一緒に来ていただき、遊び方のアドバイスをして欲しい。幼稚園の先生はノウハウとしてほんとうに楽しい遊びをいっぱい持っておられます。ヘルプという形で、アドバイスという形で何か地域に開かれた幼稚園になればいいと思います。

 それから、社会から隔絶され、育児に埋没させられ、それが大きなストレスになっているお母さん、もっと勉強したいと思っているお母さんのために託児つきの講座というのをぜひ増やしていただきたい。行政ではいろいろな講座が開かれていますが、託児つきというのは少ないと思います。全部託児というのは無理だと思いますが、施設の状況等が許すところだけでも、託児をつけることによって、そういった子育て中のお母さんにも積極的に参加していただけると思います。県の教育委員会で開かれるインターネットの講座など子育て中のお母さんにぴったりだと思います。家の中から出られない、でも、社会との窓を持っていたいというときに、インターネットがあれば、ほんとうに大きな窓として社会に向かって開いていけるし、子育てが終わったときに、また自分がそういった社会の中に出ていける一つの道筋になると思いますので、そういったことをいろいろ考えてみました。

 以上です。

 

【委員】  劇団四季の東京の四季劇場は託児所がついています。ですから、若いお母さんが赤ちゃんを連れてミュージカルを見に行けるというふうになっていますね。

 

【委員】  最近劇場はそういう配慮を行っているところが多くなっています。

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 (母親の活力を地域の行事に活かせ)

【委員】  実は、女性の社会進出が是か非か、あるいは、専業主婦のまま活躍の場がないかとか、子供にそういうふうなお母さんの歴史、もしくは社会の中で活躍をされているお母さんたちをどういうふうに写っているのか、また、育児とは一体何なのか、単なる人づくり、それではないような気がします。私のポリシーといいますか、スタンスといいますか、だれが子供を育ててもいいというふうに思います。社会といいましても、教育の場もあり、前回も申し上げましたけれども、子育てというのはやはり社会づくりにつながる人づくりです。人をつくっていくわけで、すなわちそれは社会づくりで、これこそがやっぱり教育の基本的なエネルギー、基盤になると思います。

 今、女性は、お母さんは何かしら大事なものを忘れているような気がします。決してそれは女性の社会進出が是か非かではなくて、社会進出をしながら、家の中での教育、保育、あるいは育児に役に立たせるような社会進出は間違いなく是だと思います。学習する場所は少ないよりも多いほうがいいと思います。経験も間違いも含めて、経験は多いほうがいいと思うんです。それは子供に限らないことだと思います。

 私の知っている和菓子職人が常日ごろ言うのには、アズキは生きている、子供と一緒なんだと教えてくれます。良い和菓子を作ろうと思えば、子供と同じように我が子のように愛情を注いでいかなければならない。これが教育の基本だと思います。

 それと、お母さんというのはほんとうにエネルギーがありますから、いろんなことをしたい、何でもしたいという気持ちがあります。私の周りにいるお母さんはイベントやお祭りが大好きです。ワイワイガヤガヤ、もうそのイベントの企画をする力、エネルギーなんてものは非常に綿密で、メニューをつくるにしても、プログラムを設定するにしても、お金がかからないように一生懸命に組み立てるんです。それを私は何とか実現させてあげたい。そこでまた生まれる、人と人との、やりながら、活動しながら発する言葉同士の中で気づきがあるんです、だから、ああしたらどうか、こうしたらどうかじゃなくて、実際に五感を働かせて、お母さんが企画したものをベースに奈良県全体でイベントをすれば、見えてくるものがあるのではないかと思います。

 以上です。

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 (幼児教育における父親の役割の再認識)

【委員】  幼児教育をテーマにして今お話があるんですが、いろいろ納得して聞かせていただいていますが、幼児教育で一番大事なのは家庭、その中では父と母の両方、そして今、父親がその教育の場から逃げている、そういう状態が夫婦の不和を呼んで、そして教育力が劣ってきていると私は思います。

 それから、もう一つは、個性重視ということで、基本的なしつけ教育などができていない。お年寄りの人は、若嫁、息子に怒られても、子供の将来のため、孫の将来のためしつけを十分するべきです。しかし、若嫁、息子に叱られてもというようなところが、幼児教育の問題の本質にあるのではないかと思います。

 幼児教育に何が大事かと言われれば、社会も大事、それから、保育所、幼稚園もそれぞれ大事だと思いますが、1点に絞るということになれば、それは家庭、さらにその中において父親をその場面に引きずり出してくるということでなかったらできないだろうと私は思っているわけです。

 それから、甘えというのが絶えずありまして、私ら子どものときをずっと思い出しますと、父親はたまにしか叱りませんけれども、それは一生覚えております。それから母親はがみがみ言いましたけれども、あまり聞いていないけれども、やっぱりしつけられたというように思うわけで、昔から「三つ子の魂百まで」という言葉がありますけれども、やっぱり私は「しつけを孫にせえへんだら、孫は一生涯損しよりますで」という言い方を絶えずしているわけです。

 それから、先ほどの地ベタリアンの話、たばこの話がありましたが、とにかく幼稚園の先生も、それから、小学校、中学校、高校の先生も、ことによると大学の先生も全部校外指導委員というような形で、私もよくPTAも長い間関与していましたので、電車の中ででも、駅ででも口を挟むことが多いんです。にらみつけたり、怒ったり、ちょっと議論めいたことをやったり、殴り合い寸前になったけど、あの子どもたち、私の熱意というか、それをわかってくれたなというような気を最後はしているんですが、そういうようなことも大事です。

 いずれにしましても、やっぱり厳しさ、そして、甘えの体質から脱却しないと。今の時代は不満と不安のるつぼです。そして「責任者出てこい」というような形で、最高責任者の内閣総理大臣が出ていっているわけですが、そんなことでいつまでもいける時代ではないだろうと、こういうように思います。

 それから、先ほど話が出ましたが、専業主婦の話です。勤めを持っていても、いなくても、教育と勤めは両立するものだと私は思っています。それほど厳しいものではない。やっぱり自分の後ろ姿を見せたら、それはしつけにもなるだろうというように思っております。

 以上です。

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 (親は子育てに自信を持て)

【委員】  幼児教育で大切にしたいこと、今、特に感じることを2点お話します。

 今、大人が子育てに不安を持ち、自信を喪失しているという、この現実はいろいろな方々のお話で出てきました。私は幼児教育に当たる親たちに子育てを、当たり前のことは当たり前に行えと、そんな難しいことではないというふうに説明しています。やっぱり親に自信を回復してもらわなければなりません。子育てにびくびくし、子供に遠慮し、行わねばならないことを行っていない、子どもたちがそういう状況の中で大きくなってきたら大変です。

 ニュースで報じられた成人式のあの若者の姿、あれはまさに私たちが育ててきた子供たち、何の欲望のコントロールもできない、相手の気持ちもくみ取れない、そういう子供たち。そういう子どもたちを育ててきているのは、当たり前のことを当たり前にしてきていなかったからだと。その当たり前のことを当たり前に行えということはどういうことなのかということを私たちは、今の親たちに言って聞かせねばならないと思います。

 例えば文部省が出した、家庭をもう一遍見直してみようという答申、それを見ると、だれでも当たり前のことが書かれています。朝起きて、子供の顔を見てあいさつができないような家庭の中で育てられた子供が何で集団生活に耐えられるのか。私はそのことが今一番欠けている中身ではないかと思っています。だから、幼児教育の中でそれを一番大事にしていきたいと思っています。難しいことを言い合いしてもなかなか理解できない。子供を産むということはだれにでもできます。だれにでもできるということは、ほんとうに人間として当たり前のことを当たり前に追求していくという、その基本に立ち返ってみる必要があると思っています。

 もう一つ幼児教育の中で大切にしていきたいと思っているのは、極楽だけを知って地獄を知らない大人。要するに、いいことだけはよく知っているが、そうすることによってこのような結果になるということが子供たちに伝え切れていない。そういう子供たちが、大きくなってくると、何をしでかすかわからない存在になると思います。

 私はそういう点で、過去、我々の親が教えてくれたのは、こんなことをしたら誰かが悲しむ、こんな悪いことをしたらこんなことになるんだという、因果応報を小さいときに教えていかないとだめではないかと、つくづく中学校の子供たちを見て感じています。

 以上。

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 (保育所、幼稚園、保健所の連携及び保育所、幼稚園、小学校の関係の見直しをプロジェクト的・実験的に実施する。)

【委員】  親の問題と、それから保育所、幼稚園への指導、支援、両方を含めた形で、いろいろなご意見を伺うことができて、考えさせられています。

 それぞれがそれぞれのところで仕事をしているので、ごく当たり前のことができてないということを憂うるけれども、いろいろな問題が出てくるのは、やはり厳しい現状がまずあると思います。

 先回の記録の中で、2人の委員がおっしゃっていただいたことで、子育て問題をすべて行政が引き受けるというのはいかがかというふうなご発言がありました。

 一方では、本日、そういうことはすべてゆだねるということではないけれども、大いに行政のほうで援助をしてほしいというご発言もありました。

 親の問題に戻りますが、今、幼稚園と保育所が子育て支援ということで、非常に親と語り合うといいますか、親に機会を提供するということを行っております。私が最近、聞いた話ですが、例えば、先ほど話に出ていた通園グループの話ですが、グループで連れ立って店に行くのだけれども、本音を言えば「私は行きたくない」という気持がある。ところが、嫌だということが言えない。実際、行かないと親の仲間の中に入り損ねる。親の仲間に入り損ねることによって、またそれは子供の人間関係に波及する。いろんなことがあって、むげに断ることができない。親の仲間関係がこじれた結果の子供の殺人事件がありました。あそこまで行くかどうかは別にして、不安定状況は確かにあると言われる。それは、教育はぐるっと回ってきますから、自己主張をどういうふうにきちっとしていくか、周りと折り合いをどうつけるか、青年教育の問題にもなってくると思います。先ほどのストレスの問題から、閉塞感から、不安感から、とにかくそういう不安定な状況があるということは間違いがないわけです。そういう厳しい状況の中、多くの親、とりわけ母親に、その不安定な部分が顕在化してきている。ですから、子育ての具体的な技術・技能がわからないという面と、それから、ほんとうにストレスなり不安なりという面と、両方から今の親の状態というのは見ていかないといけないだろうと思うんです。

 具体的には、例えば幼稚園では第1、第3土曜のときに、率先して地域の親子を園に招いたりしています。それから、ほとんどの幼稚園で教育相談をやっています。ということで、幼稚園は現状に対応し始めています。

 それから、保育所は、先回申しましたけれども、今回改定されるその前の保育所保育指針に従って非常に多くのことをやっています。先ほどありました一時保育に病児保育に休日保育ということで、その実態をまずきちっと踏まえて、今後のニーズについて検討する

ことが必要だと思います。それから、食事については、保育所などはどんどん通信を出しまして、献立、調理法、おやつのつくり方というようなことをやっています。それから、普通衣服の着脱は保育所がやることだと思っていますが、幼稚園によっては、わざわざ着替えを持って来させて、自分の脱いだのをたたませるというところを幼稚園の活動の中に組み込んでいるところもあります。現場では、非常にいろんなことを探っています。

 父親参観もその中でかなり努力しているようですが、実際にはお父さん、数は増えたそうですが、お見えになっても、何かこちらが仕組まないと、お父さん同士がぽつぽつ離れてお立ちになるというので、今度はお父さんにお任せする仕事を考えてというふうなことを幼保ともどもにやっているように思います。

 それから、ちょっと観点がずれますが、地域ということを考えれば、郷土の芸能を受け継ぐ場も今や幼児教育になっています。小太鼓から何からお祭りから、これは運動会なんかに行っていただいたらわかりますが、各地域、これは全国その特徴がありますが、そんなふうな状況があります。

 そこへもってきて、預けやすさという子育て支援政策の中で、今まで定員で預かっていたのを、1.2倍から1.5倍まで預かってもいいという状況になっていますから、保育室は非常に子供で満ちあふれていて、天気になればなるべく外へ連れて行きたいというのが保育関係者の切実な工夫です。小さな部屋に定員の1.5倍いるわけですから、その中で落ち着いた保育ができるわけがないというふうな、そういう実態があります。

 言いたいのは、当初のご提案どおり、嘆くことではなくて、そういう状況にある中で、まず実態を知って、何がここでそれなりの提案ができるかということにつなげたいわけです。

 そのことに関係して、例えば今申し上げたようなのは、各園の工夫としてなされていることと、特別事業という名のもとに何ほどかの補助金を得て、それでなされている事業と2通りあります。そうしますと、高齢者との触れ合いなどは特別事業でやるわけなんだけれども、それは毎年申請して報告書を出してという形ですから、実践の特質としては根づきにくい。それから、非常に行事的になります。申請しては、その行事を今年は3回お呼びしようとかということになります。

 それで、少し成功しているのが、特別事業ではなくて、高校と連携して、高校生がボランティア、保育の時間に保育所、幼稚園にやってくるとか、そのあたりはわりと両方がメリットをとっているようです。

 というようなことがあるので、今まで特別に考えていたことを一般を対象に考えていくという観点も要るのではないかとおっしゃった、あれは私ははっとしたんですが、そうしますと、今はそういう子育ての困難な中で、特別事業という名のもとにあれこれ試みをしていますが、その中のどれかでいいので、奈良県なら奈良県の親を支援する保育施設の一つの方針としてとって、そして、それを日常的な実践として展開していったらどうかというふうに思います。

 その中で、提案といいますか、一応考えてみたことが2つあります。

 一つは、今申しましたように、親への支援が、行政上の制約ですが、幼稚園、保育所がばらばらに動いています。それは特に文部省のほうが幼稚園に対して危機感がありますから、かなり領域を保育所的に広げてきているところもあるんですが、いずれにしても、私たちが対象にするのは同じ地域であり、同じ子供たちなので、もしも奈良県で可能であれば、幼保、それから保健所も入れたほうがいいと思うのですが、子供のさっきの虐待の問題とか、その辺のかなり近いところを把握していますので。ある種、プロジェクトのように独自に、そういう行政の縦割りのところで制約を受けないで、そして、どういう親への支援が可能かというようなことをプロジェクト的に、実験的に考えてみたらどうか、これは私は提案させていただけるのではないかというようなことを一つ思います。

 それから、もう一つは、後の義務教育ともかかわるんですが、提案の観点の5になりますが、保幼小の連携の問題ですが、しつけ等が最もそういうふうに言われてくる小学校教育と、それから、伸びやかに自主的に育てようという部分とは明らかに溝があります。それで、これはある県内の小学校ですが、幼稚園が併設で、普段校庭で遊ばしてほしいという申し入れを小学校のほうはお断りになっています。小学校は小学校で方針があるわけです。小学校の教育時間は教育課程上の時間なので、そこは我が学校の子供たちがいつでも使える状態にしたいというのが小学校の先生のお考えです。

 ところが、子供は4月からは隣の校庭へ行くわけで、そこで生活が規律の生活に変わるわけですね。だから、そこの部分の接続をどういうふうに考えるかということも含めて、保幼小の接続を、特別に都市化しているわけでもないし、奈良市でいえば典型的な農村部でもない地域の特色があると思うんですが、そのあたりで、これも少し実験的、プロジェクト的に見てみたらどうか。今の制度の中ですぐに変えようということにはかなり困難があるので、パイロット的にというようなことを思います。

 以上です。

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 (親の監護力を育てる支援策を)

【委員】  総括された後みたいな形になって申しわけないですが、現象的なところから見ますと、少年非行という場面を見てみますと、少年非行に染まりかけた子が見事に立ち直るケースがあります。それを見ますと、親子のパイプがしっかりできている子供です。それはどのようにして培われてきたものかという点で、親子のスキンシップを重ねた愛情のきずな、そして、その中で父性性と母性性です。父親からはルールや規範を教え込まれ、そして、母親からはそれをまた庇護するという、こういった形の中で基本的生活集団、しつけ、こういったものをきっちりと育ててもらった子供さんは、非行に染まりかけても見事に立ち直ると、これを強烈に感じているところです。

 そこで、保育所にせよ、幼稚園にせよ、幼児教育の段階から親のこの監護力、教育力、育てる力、こういったものについて指導ないし支援ということの工夫を何とぞよろしくお願いしたいと感じる次第です。

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 (新たな地域社会づくりの核にPTA)

【委員】  いろいろお話をお伺いして、いい勉強になったと思いますが、途中話題に母親の社会参加か、あるいは家事従事かという話が出ていましたけれども、私はやっぱりお母さんもお父さんも子どもの教育について考えてほしいと思います。そして、家庭に考える場をつくれば、そこで子供が育っていくと、こう思いますが、どうも今女性の社会参加に名をかりて、働きたいから、外へ出たいから、子供をどこかで面倒を見なさいと主張される。どうも子供を邪魔者扱いしているところがあるのではないか。これはやっぱり気をつけなければならないと思います。

 それと、家庭は非常に大事ですが、家庭の教育の場にほとんど父親の姿が見えない。お母さんと子供だけがもう必死になっているわけです。お父さんの姿が見えない。これはやはり考えるべきではないのか。

 お父さん方、確かに勤めて金を稼いでしっかり生活を支えているわけですが、もう少し家の中で、子供との関係で父親の姿がもっと明確に見えるような、そういうことが大事ではないかと思います。

 それから、幼稚園、保育所の話が出ているんですけれども、個の尊重ということで、幼稚園、保育所ではあまりにも個に焦点を当て過ぎるんじゃないか。集団適応というか、社会的適応をほんとうに考えているんだろうか。一人一人を大事にするのは結構ですけれども、ばらばらでやっているものですから、これが小学校に上がると、途端に集団適応できない。どうも日本の教育の主張では、個性が大事だから、集団を否定する風潮があったわけです。これは集団行動=全体主義ではないので、社会的適応をどう図るのか、これはやはり大事にすべき問題だと思います。

 それから、地域社会の話も出ていましたけれども、昔の地域社会というのは技能伝達の場であったわけです。農業なら農業の技能を伝達していく、先輩から、あるいは青年団からというように。その中からしつけをされたわけです。今の社会ではその技能伝達の場面というのはないわけです。これは新しい地域社会づくりを考えなければならない。そういう意味で、学校にとってはPTAが大きな地域社会ではないか。これをやはり学校も行政も育てながら、PTAが地域社会であり、これをひとつ核に据えながら子育てを考えるべきではないかと、そんなことを思っております。

 以上です。

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(休  憩)

【会長】  それでは、再開します。 後半は、「義務教育について」のお話をお願いいたします。

 

II 義務教育について

【委員】 基調提言(テーマ:義務教育について)

レジメ

義務教育について

1.義務教育とは

  (1)憲法26条  能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する。
    保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。
    義務教育は、これを無償とする。
  (2)教基法4条 保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。
  (3)学教法22条 保護者は、子女の満6才に達した日の翌日以降における最初の学年の初から、満12に達した日の属する学年の終わりまでこれを小学校に就学させる義務を負う。(盲、聾、養護学校の小学部)
  (4)学教法17条目的  
    18条目標 1号〜8号  

2.生きる力とは

  (1)学習指導要領の変遷
    1)S22、生活化・体験化
    2)S33、系統化
    3)S43、現代化 
    4)S52、人間化(ゆとりと充実)
    5)H元年、個性化(新しい学力観)
    6)H10、総合化(ゆとりの中で生きる力を)
  (2)生きる力
    自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力(前回 5)の新しい学力観を発展)
    自らを律しつつ、他人と強調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性とたくましく生きるための健康と体力
   
* 1)と3)と5)と共通
  (a)基本的概念を明確にし
  (b)科学の方法を駆使、探求の課程をたどらせる。
 
  事実 仮説 検証 定理
  (c)1)の生活化・経験化の際には、はいまわる〇〇科の批判を受け、2)の系統化へ 
  (3)学習指導要領の概念
    大綱的基準から最低基準(ミニマム・リクワイアメント)としての性格へ

3.学力と学力低下

  (1)基礎的な学力
    読み、書き、計算、世界の中で生きるための外国語や情報活用能力
    *平成12年11月教育委員会月報、大島理嘉文部大臣 巻頭言談
  (2)国際学力比較 平成7年と12年の比較
   
数学 3位から5位へ シンガポール604点、日本579点 
  学習が好き48%(前回5%減、世界72%)
理科 3位から4位へ 台湾569点、日本550点
  学習が好き55%(前回1%減、世界79%
  (3)学力論争
    1)理解度は、小・中・高→7.5.3と言うこと
    2)大学生の学力低下{1+(0.3−1.52)}÷(−0.1)
   
  理工科系大学生の正答率 58〜91%(朝日新聞)
    3)理科離れ
    4)2006年問題
    5)五日制(70単位時間削減)と学習内容3割減への危惧
   
  指導漢字数、必修英単語数の減、台形の面積の指導カット、円周率の扱い
    6)ゆとり教育亡国論
    7)TT、少人数学級(第7次標準法改正)
  (4)学力評価  「目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)」を一層重視(指導要録)生きる力の評価、総合的な学習の時間の評価

4.心の教育

  (1)家庭教育の役割
  (2)ゆとりの教育・心の教育・総合的な学習の時間の展開
  (3)心の教育と特設道徳の時間
  (4)小学校−ふれあいフレンド、中学校−心の教室相談員

5.学校の役割

   学校改革、教師改革、カリキュラムの改革の三つがセット

  (1)地教行法、学校管理運営規則の改正
  (2)学校評議員制度
  (3)公立義務教育学校の学校選択・通学区の弾力化
  (4)教員への評価、勤務評定の見直し
  (5)学校経営の評価、マネージメントサイクル(P−D−Sサイクル)
  (6)開かれた学校

 

 

 (提言の内容)

【委員】  義務教育が抱えている問題等も話をしながら、進めていきます。

 1,義務教育とは

 憲法第26条、教育基本法第4条、学校教育法第22条で示されているように、保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負うということ、そして、その上で能力に応じて等しく教育を受ける権利を有すると定められています。

 長い間この能力ということと等しくということが葛藤を重ねていまして、現在批判されていますように、結果平等論で推し進めてきた教育に問題があるのではないかということも出ているわけです。「保護者が子供に教育を受けさせる義務を負うということ。」、それを受けて、教育基本法で9年間という規定をしています。そして学校教育法では、その教育はいつから始めるのだということで、満6歳に達した日の翌日からということが定められています。さらに学校教育法第17条、第18条では、教育の目的と目標が示されています。目的は非常に簡単なんですが、「心身の発達に応じて普通教育を施す。」と定められており、その目的を達成するために、第18条第1号から第8号までの目標が示されています。非常に概略的な目標だろうと思いますが、人間関係の理解と協調、あるいはまた郷土と国家の現状と伝統の理解、それから、基本的な衣食住や産業についての理解をすると。そして、特に国語教育、それから、下の段の数量的な教育、それから自然現象に対する科学的な観察、それから健康上の問題、それから芸術的な領域と、このようなことが示されています。

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 2,生きる力とは

 これを規定しておりますのは、学習指導要領。「ゆとりの中で生きる力をつける。」ということが、この学習指導要領に示されています。ご存じのように、学習指導要領は教育課程の基準として法的な性格を持つています。現在までに6回の変遷をたどっております。

 戦後、昭和22年に教育がスタートしてから、そのときは生活化・体験化という形で10年ばかり続きました。生活化・体験化の時代、例えば理科では身の回りの生物を集めようというので土の畑で生物を集めたり、部屋の中の生物を集めたりというような、ほんとうに身の回りから学習に入っていくということでした。結局、体系的な整理もできず、まとまりもない状態で、「はいまわる理科」というような批判を受けて、そして、やはり系統的な学習に移るべきだということで、昭和33年に系統化の指導要領ができました。そして、さらに昭和43年には現代化ということが行われました。これは1957年に米国がソ連のロケットの打ち上げ競争に負けました。いわゆるスプートニクショックということが言われたときです。それで、米国が教育の現代化を強力に進めたわけです。特に理科、数学のカリキュラムの改訂、また注目すべき点は、そういう理数科教育だけでなくて、芸術教育に取り組みました。そして、全米科学財団を中心といたしまして新しいいろんなカリキュラムができました。CBAとかBSCSとかアースサイエンスとか、ほんとうに目新しいカリキュラムができて、教科書もできたわけです。そして、同時に何を取り扱ったかというと、先生方の大学院での再教育が行われました。そのような米国の影響を受けまして、日本では昭和43年に現代化が進みました。ですから、この現代化の考え方は、現在の総合化の考え方と非常によく似ていますし、また、昭和22年の生活化・体験化ともよく似ているわけですが、その下のほうに少し示しましたように、基本的な概念を明確にしなさい。そして、その概念を理解するのには、科学の方法を駆使して探求の過程をたどらせなさい、この2つが大きな柱であったように思います。

 例えば、生物を学んだ後で学生たちが、生物とは一体何かということが要約して説明できるようにするのが教育なんだということです。枝葉末節の葉が並行脈であるとか、網目状であるとか、花びらが5枚であるとかいうことではないということ。基本的な概念を明確にしなさいということでした。それから、事実に基づいて仮説を立て、検証をして、定理へと結びつけていく探求の過程をたどらせなさいということ。例えば殺人事件、新聞記事における殺人事件の取り扱い方では、よく調べてみると、犯人はだれだれであったという事実だけでは興味を持たない。探偵小説のおもしろさは、その殺人事件という一つの事実に対して、どのように探偵が仮説を立て、検証をしていくかということが興味を惹くわけですが、そのようにして道をたどらせるということが強調されていました。それを受けた昭和43年の日本の学習指導要領における現代化でした。

 ところが、非常に程度が高過ぎて、落ちこぼれをたくさんつくってしまう結果になりました。そして、昭和52年にはゆとりと充実という言葉が出てきて、人間化が必要という、わけのわからない言葉が出てきました。このときに学校裁量の時間等が出てきまして、このゆとりという言葉が現在までまだ尾を引いているのではないかと思います。

 そして、さらに平成に入りまして新しい学力観というものができました。これは知識よりも学び方を学んでいくという、どちらかといいますと、その上の昭和43年の現代化と同じ考え方であって、探求の過程をたどらせる学力をつけていくべきである。いわゆるみずから考えていく、問題を発見していく、問題を解決していくというようなことでした。そして、さらに今回は生きる力ということで、総合的な学習時間を導入した新しい学力観を発展させた総合化が進んでいます。

 このようにしてみますと、カリキュラム、学習指導要領というのは、やはり歴史が繰り返されているのと同じように絶えず繰り返しているということを感じるわけですが、今また新たに生きる力とかゆとりとか言っているから学力が低下するというような批判もできているわけです。

 ただ、今回、この総合的な学習時間というものを設けて、自分で課題を見つけ、みずから学んで、みずから考えて主体的に判断するということ、よりよく問題を解決する能力をつけるということですが、一つ気になりますのは、2番の(3)で置きました学習指導要領の概念規定が今度は大幅に変わったように思います。従前は、教育課程の基準としての学習指導要領というのは大綱的な基準であり、教育の世界ではやはり幅のあるものだと認識してきましたが、今回は、学習指導要領は国で定める最低の基準、そういう定義がされてきました。つまり、労働基準法で言う基準性に等しい最低の基準、これ以下に下がることは許されない、これ以上、上がるのはいいというような、そういう変化が起こったように思います。これはその最低基準という性格を当てはめますと、今度どのように評価をしていくか、どのような生徒に対する評定をしていくかということとかかわってくるように思うわけで、非常に大きな変化ではないかというようにとらえています。

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 3,学力と学力低下

 そこにも挙げましたように、大島文部大臣、きょうお配りになった文部広報にも出ているわけですが、この大臣の巻頭言を読んで、少し驚いています。4つの学力というのを挙げられています。1つは読み書き計算、そして、外国語や情報活用の能力というのが1つあります。それから、社会的な倫理観とか正義感などの集団のルールというのがあり、3点目には、歴史文化の継承というのを挙げています。それから、最後には、これも新しいことですが、私的や人的なリーダーの発見と育成ということが挙げられています。その第1点に、読み書きそろばんに対して、外国語、それから情報活用のいわゆるIT革命を意識してだろうと思いますが、こういったことが基礎的な学力というように定義されています。これを受けて今後、指導を進めなければならないと思いますが、そういう学力観に対していろんなデータが示されるようになりました。

 (2)に挙げましたように、「国際学力比較」は平成7年と12年に出されておりまして、数学では、日本は3位から5位に変わった。シンガポールがトップで604点で、日本は576点。理科が3位から4位になった。トップが台湾で、569点から、日本は550点になったと。こういうようにランクが下がってきています。依然、全体としては高いランクにありますが、傾向としてランクが下がってきています。しかも、東洋の列国の中で日本は非常に程度が低くなったというところが一つ指摘されています。

 それから、もう一つは、その隣に挙げましたように、数学の学習が好きだというのが日本では48%しかいない。前回より5%減っている。世界では72%平均、数学の学習が好きだと言っている。それから、理科については55%である。つまり、数学や理科の学力がトップクラス、5位、4位でありながら、学習が好きだというのが世界の平均を下回っていると。つまり、点はとるけれども、その教科が好きで、将来数学や理科を専攻していこうというような方向性が見られないということが指摘されているように思うわけです。こういったことが今、学力観における一つの課題だろうと思います。

 そして、もう一つは、「学力論争」といたしましては、小・中・高の理解度は7、5、3だというようなことも言われています。小学校で7割しかできない、中学では5割しかできない、高等学校では3割だというようなことも言われています。それから、朝日新聞で出ておりましたように、大学生の学力低下で、1+(0.3−1.52)÷(−0.1)というのが、これが理工系の大学の学生で正答率が58%、よくできているところで91%だと、こういう例が挙げられています。

 そしてまた、医学部の学生が生物を学んでこない、細胞についての知識もない。あるいは、高等学校における物理の選択がもう1%ぐらいしかないというような理科離れが進んでいるのではないかということが言われていますし、また、高等学校の新しいカリキュラムは2003年から始まるわけですが、それが大学へ入ってくる2006年以後、大学教育は非常に注目していかねばならないというような、そういう心配をされているのが2006年問題です。それは5日制の実施が2002年から始まりますが、その時間数の削減と、学習内容は3割減っていくこと、これに対する心配です。文部省も文部広報等でいろいろと説明していますが、指導する漢字数が減る、あるいは英語の必修単語数が減る、あるいは台形の面積の求め方がカットされる。公式を当てはめて計算するのではなくて、三角形の面積の出し方がわかっておれば、その組み合わせから理解できるのではないかということです。それから、円周率は3.14で扱うわけですが、目的に応じては3を使ってもよいというようなことに対する批判もあります。

 そして、ゆとりの教育を言っていることが教育を低下させてしまったのではないかということがいろんな出版物で見られるわけで、しかも、文部官僚あたりもこういうことを言っているわけです。つまり、ゆとりが必要だと、学校は忙し過ぎると、勉強が忙し過ぎてゆとりが必要なんだと。勉強というのは、そういう意味であまりいいことではないと、格好の悪いことだというようなことを子供たちに印象づけてしまっているのではないかと。勉強に対するマイナスのイメージを与えるのが「ゆとり教育亡国論」のようでありますが、そういった、やはり学校は勉強するところで、しかも、努めて努力しなければならないということを教えていくべきだという批判もあります。

 これに対して、制度的には、少人数学級というのが第7次の標準法の改正でスタートいたします。つまり40人の学級を標準としながら、それを生活学級として、そして、もう一方では、算数や理科や国語等、学習の困難なものについて学習集団を分けるというものです。いわゆる生活集団と学習集団を分けるということが始まるわけです。

 今こそこの20人をどう編成するかということを真剣に考えてほしいと思います。つまり、40人を単にピンからキリまであるのを2つに割ったところで指導法の改善にはならない。できない子をできることに導くことにならないと。もう思い切って、到達度あるいは習熟度によって学級を編制する、そして指導法を工夫していく、そして、この際にほんとうに教師の権威、親にも子供にもそれに従うような権威を確立する必要があると思います。単に40人を20人の2クラスに割ることだけでは意味がないのではないかという感じがして、この辺を強調していきたいと思っています。

 それから、学力観についてもう一つは学力評価ですが、これもまた大変な問題です。今度は目標に準拠した評価、いわゆる絶対評価を重視しなさいということです。いわゆる学籍簿、指導要録には、それで評価しなさいということです。あらゆるデータをもとにしてその子の学力を絶対的に評価するというのは、これは非常に大きな課題になってきますし、逆にまた、特別な芸術関係の教科であれば、個人の教師が独断で評価をするということで、取り返しのつかないこともあると考えます。この相対評価から絶対評価へ今度ははっきりと移行していきますが、この研究をどうしていくかということが大きな課題として残り、新しい学習指導要領の展開と同時に、これに取り組んでいかなければならないと思います。

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 4,心の教育

 いじめ・不登校に対する心の教育ということで、先ほどから出ていました教育の原点は家庭にあるというような、国民会議でも強調されていることです。制度的には、小学校でふれあいフレンドとか、中学校では心の教室相談員なども配置されているわけですが、もう少し実態的な配置が必要ではないかと思っています。小学校においてはふれあいフレンドという教員を1人置いても、いつ触れ合うのかという問題がございますし、また、中学校の心の教室相談員も、担任の先生あるいは生徒指導部の先生とどのような連携をとっていくかということも課題です。だから、問題のある学校とか、あるいはその必要なところへは一人前の丸々5日間勤務する先生を配置をしていくというような、そういう実態的な配置が必要というように感じています。

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 5,学校の役割 

 これからの第3の教育改革は、学校改革と、それから教師の改革とカリキュラムの改革の3つがセットであると言われていますが、それについていろんな動きがあります。

 一つは、教育委員会の機能を定めた地教行法の改正、それに伴って市町村の学校管理運営規則の改正等も実施していまして、これは地方分権や、あるいは規制緩和、あるいは校長先生の権限の拡大等がその中身で、既に届け出や承認の制度や、あるいはまた修学旅行等学校行事の基準の拡大とか、あるいは、使用する教材の採択についての校長先生の権限の拡大等も動いています。そういう制度の改革のもう一つの大きな特色は学校評議員制度の問題だと思います。これは省令の改正があって、そして、それを市町村で学校管理運営規則の中に盛り込んでいるわけですが、住民の意向を教育に反映する、あるいは、住民の協力を得て学校が運営される、それから、学校教育のアカウンタビリティーといいますか、説明義務、説明責任を果たしていくと、そういうような機能を発揮する意味で学校評議員制度が置かれるわけです。高等学校においては制度として設けられているところが出てきているようですが、小・中ではまだ少ないと思います。これを真剣に受けとめて、先ほど申しました3つの視点からよりよい学校運営を行うべきだと思っています。

 それから、東京都などでは、義務教育でも小・中の学校の選択の自由や、あるいは通学区の弾力化が行われていまして、いわゆる競争の原理を義務教育にも持ち込むわけですが、この辺も真剣に見つめて取り組むべき問題だと思います。

 最後に、学校評議員制度とも関係するわけですが、開かれた学校をつくって、今までは学校が閉鎖的だったと、もっと地域に開かれた、地域の期待を率直に受けて、そして学校をつくっていくべきであるというのが今後の義務教育の果たすべき一つの方向だろうと、そう思います。

   以上です。

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【会長】   次回は本日提言のありました義務教育について討議をお願いします。

 

【教育長挨拶】

 

   

                      〔文責は奈良県教育懇談会事務局〕

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