

飛鳥駅から、東に伸びる道に沿って流れるのが檜隈川だ。
つい見落としてしまいそうな小さな川に、こんな恋歌が残っているとは。
作者の気持ちに共感する現代人も多いことだろう。体育祭のフォークダンスでは、男女が手をつなぐのが決まり。それを理由に、うわさにならずに好きな子の手をつなげる!と思ったもの。
作者未詳となっているけれど、やっぱり女性がつくったうたかな?
「君(きみ)」という言葉は、女性が男性を呼ぶときなどに使われていました。
何かにことよせて、意中の人と手をつなぎたい、そう願うのは男性も女性も同じです。作者は、当時の女性としては積極的かもしれません。男性が同じような場面をうたった歌(巻3-385)
もあるので、ぜひ読み比べてみてくださいね。

ここは古代の天皇が住んでいた場所。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した場所でもあるが、今は何事もなかったかのよう。のどかな明日香風が吹くなか、この歌が刻まれた歌碑がある。
宮が遷った先は、藤原宮。飛鳥から4、5kmほどの場所。しかし、初めて大規模な都の藤原京ができてそれまでの社会通念は大きく変わりました。皇子の扱いも変わり、「天皇とそれ以外」という支配体制に。志貴皇子にしたら、「ああ、時代は変わってしまったんだ」との思いだったのでしょう。
なお、采女は、天皇以外の男性は近づけない存在。采女になるには条件があって、年齢は13歳~30歳まで。諸国の郡司の娘など身分が高く、容姿端麗・才色兼美。歌も上手に作れなければいけませんでした。
天武天皇といえば、古代史最大の内乱といわれる「壬申の乱」の勝利者。飛鳥板蓋宮を営み、新しい国づくりを推し進めたことでも有名。そんなすごい天皇が、雪の降る・降らないで、張り合っているみたいで面白い。大原って、どこにあるのだろう?
この歌は、次に紹介する藤原夫人に送った歌。藤原夫人が住んでいた大原(現在は小原と記される)は、伝飛鳥板蓋宮跡から見えるところにあります。
ちなみに、ここから奈良県立万葉文化館もすぐ近く。館内にあるカフェレストランの窓際の席に座ると、窓の向こうに大原の里を一望できてオススメです。

藤原夫人が住んでいたこの大原の里は、先ほどの伝飛鳥板蓋宮跡から拍子抜けするほど近い。
当時は一夫多妻制で、「夫人(ぶにん)」とは位のひとつ。
藤原夫人(ふじわらのぶにん)は、天武天皇の妻の一人でした。住んでいる場所がすぐ近くなので、雪の降る時間にそれほど差もないだろうに、どっちが先だ後だと夫婦で言い合っているのが、なんとも微笑ましいですね。

飛鳥寺は、日本初の本格的寺院。聖徳太子とともに仏教の普及に貢献した蘇我馬子の発願によって創建された。「法興寺」とも呼ばれ、今の奈良市にある「元興寺」の前身。本尊の飛鳥大仏は、現存する日本最古の仏像。
作者の赤人は、男女の恋愛を詠んだ歌が少なかった歌人でした。また、この時代、「恋」とは、男女間の恋だけではなく、都への焦がれるような想いも「恋」と表現しました。ちなみに「恋」の語源は「乞う」から来ているとされています。
「霧が消えないように私の心も消えない。たとえ都が遷ろうとも、飛鳥の宮の横を流れるこの明日香川はずっと残っている」。奈良時代の宮廷人にとって、飛鳥は特別な存在で、自分たちにとってのルーツそのもの。この歌は、作者個人の想いというよりは、飛鳥に対する当時の人々の思慕を代表したものといえるでしょう。

いにしえの飛鳥の人も愛した甘樫丘。標高は148mしかなく、散策にもちょうどいい。園路に植えられた万葉植物を右に左に見ながら、頂の展望台に到着。眼下には先ほど歩いてきた飛鳥の里が。ここは絶好のビューポイントで、大和三山をはじめ、遠く葛城山系まで見渡せて気持ちいい。 持統天皇にとって、この飛鳥は、「君(きみ)」とのゆかりの場所なのだろうか。
この歌の作者名は明記されていません。ただ、『万葉集』には、和銅3年2月に藤原宮から平城宮へ移るときに長屋原(今の天理市)から旧都を望んで作ったと記されています。また、ある本には「太上天皇」の御製歌だと書かれているとも注されていて、その場合は持統天皇の歌となります。夫であった天武天皇の葬られた地を「君があたり」と表現したのかもしれません。
「とぶとりの明日香」とは、いわば決まり文句。明日香という土地の素晴らしさを褒め称える表現です。そのことから、「飛鳥」と書いても「あすか」と読むようになりました。

軽とは、今の近鉄橿原神宮前駅から近鉄岡寺駅の東方、ほぼ大軽町にあたる場所。この閑静な住宅街にはかつて、「軽の市」と呼ばれる市場が設けられ、多くの人々で賑わっていたそうだ。
軽にいた、人麻呂の妻のことを詠んでいるといわれています。古代の結婚は一夫多妻で、初めは、男性が周りに内緒で女性の元に通うものでした。いわば、女性が家を継ぎ、子を育て、財産を守っていくという状況があったようです。

島の宮とは、草壁皇子が住んでいた宮のこと。そういえば、この付近には今も「島庄」という地名が残っている。この人麻呂の長歌は、草壁皇子が太陽神からの系統であることを示そうとしたもの。草壁皇子には、その死を悼んで詠まれた挽歌が数多く残っている。
藤原京の近くを走っているコミュニティバスの車体には、漫画家・里中満智子さん作『天上の虹』の主人公である持統天皇が描かれています。
持統天皇は天智天皇の娘です。天智天皇の弟・天武天皇と結婚し、草壁皇子を産みました。
草壁皇子は、太陽と並ぶ皇子という意味で「日並皇子」とも呼ばれましたが、年若くして亡くなりました。 自分の跡を継がせようと考えていた持統天皇にとって、その衝撃は計り知れないものだったでしょう。
天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子。その舎人が詠んだこの挽歌は、草壁皇子に対する舎人自らの思慕の情を託していて印象深い。 鳥さえも皇子を慕っていたと詠んでいる。
今ではすっかり石舞台古墳の名で親しまれていますが、実は、近世に出版された当時の観光案内書『大和名所図会』では、「石太屋(いしぶとや)」と記されています。
「島の宮」というのも、よく考えてみると、海のない奈良県にどうして「島」なのか、気になりませんか? もともと「しま」は、「島」ではなく、「山斎」の意味。「山斎」とは庭園のこと。蘇我馬子は、当時は自然の中に家があるのが普通なのに、わざわざ庭を造った人。それゆえ、「島の大臣(おとど)」といわれました。その大邸宅を再利用したのが草壁皇子の「島の宮」とされています。


飛鳥坐神社は、八十万(やそよろず)もの神様を統率する事代主神を祀る、由緒ある古社。境内には陰石、陽石が対になった「むすびの神石」があり、古代から続く神石信仰が受け継がれている。神秘的な神石に、いつの世も良縁を願い、子宝を祈念する人々が後を絶たない。鳥居横には願い事の詰まった絵馬が結ばれている「むすびの木」も立つ。また、2月に行われる奇祭「おんだ祭」が有名。即興だという天狗とお多福による“夫婦和合”の所作はリアルで、笑いが絶えない。股間を拭いた「福の紙」を手にすれば子宝に恵まれるとか。
境内には、3基の万葉歌碑が立つ。


万葉文化を学ぶのに最適なミュージアム。地下1階にある一般展示室には、古代の市場や官人の様子などを再現したジオラマ、クイズ形式で『万葉集』を学べるコーナーなどがあり、万葉集をわかりやすく紹介。館内1階にあるカフェレストランからは、目前に小原の里が望め、ティータイムを楽しみながら、万葉の世界観に浸ることも。


万葉集研究の第一人者で、「万葉風土学」を確立した犬養孝。彼は、万葉歌に詠まれた景観を保全するため、全国の万葉故地に自らの揮毫の万葉歌碑を建立した。館内には、犬養の遺品や直筆原稿、揮毫の万葉歌墨書などを展示。また、万葉に関する蔵書約7,000冊を有する図書室や喫茶スペースもあり、ゆっくりとくつろげる。