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狐井稲荷古墳 きついいなりこふん

記入年月日 2020/07/03

狐井稲荷古墳と城山古墳
所在地
香芝市狐井地内
区分
遺跡 | 古墳
指定内容

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
 狐井稲荷古墳は、馬見古墳群の所在する馬見丘陵南端から南西へ3㎞、標高約59mの南北に細長く派生する狐井丘陵と呼ばれる低丘陵上に立地する。現状では東西方向に主軸をもつ全長約70mの前方後円墳と推定されるが、墳丘の周囲は住宅が建ち並び、削平されているため、古墳の墳丘の規模や形状、埋葬施設等の詳細は不明である。墳丘では円筒埴輪片が採集され、航空写真で僅かに盾形の地割の痕跡が遺存することから、平成5年度に奈良県遺跡地図に登録された古墳である。 
 当丘陵上には、狐井稲荷古墳の南側に接して、後円部径85~90m、前方部幅約110m、全長約140mの大型前方後円墳である狐井城山古墳が所在する。墳丘の周囲には幅18mの周濠と外堤が巡り、墳丘裾には葺石や円筒埴輪がみられる。外堤の一部は発掘調査が実施されているものの、墳丘は未調査のため、埋葬施設や副葬品は不明であるが、円筒埴輪の型式から5世紀末から6世紀初頭の築造と推定され、当時期としては奈良県内でも最大級の規模を誇る。
 狐井城山古墳北東の前方部外堤に接する用水路からは、兵庫県の竜山石製の長持形石棺の蓋石1基(市指定文化財)や家形石棺の蓋石一片が採集されているのをはじめ、南方の阿弥陀橋にも長持形石棺蓋石2基と石室の天井石片1基が遺存している(市指定文化財)。大きさから狐井城山古墳の石棺材である可能性が高いが、狐井稲荷古墳の可能性も考えられる。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
 狐井城山古墳と狐井稲荷古墳が所在する狐井丘陵には両古墳の西側に沿って丘陵を南北に貫く狐井街道が通じており、丘陵の東西には二上山麓から西は堺に、東は伊勢を結ぶ堺街道が通じている。街道に沿って常盤寺の平安時代中期の大日如来坐像(阿日寺保管)をはじめ、恵心僧都(源信)生誕伝承をもつ阿日寺には、鎌倉時代後期の絹本著色阿弥陀聖衆来迎図(奈良国立博物館寄託)が伝わる。ともに重要文化財であり、古代から中世にかけての文化財が集中している。また、福応寺には室町時代と推定される通称「板仏」と呼ばれる板地紙貼彩色阿弥陀三尊来迎図が伝わる。狐井城山古墳には戦国期の岡氏の城郭であったことが史料に記されており、古い街並みとともに多くの文化財が重複して分布している。
狐井城山古墳は、岡氏の城郭築造の際に大幅に改変されているものの全容を止めており、また、狐井稲荷古墳も墳丘の削平は著しいが、微かに前方後円形の形状をうかがい知ることができる。通常100mを超える大王級の前方後円墳は、陵墓に治定されるものが多く、立ち入ることができないが、当古墳は、その対象外であるため、公有化して保存を図ればヤマト王権に関わる大王級の古墳の様相を現地で体感することが可能であり、学校教育での学習教材としても活用することができる。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
『記紀・万葉集』から、本市の葛下川流域一帯は片岡と呼ばれていたことが知られており、『記紀』には、第23代顕宗と第25代武烈の両帝の陵墓が片岡(傍丘)石坏丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)に営まれたことが記載されている。近年では、現陵よりも狐井城山古墳と狐井稲荷古墳をあてる見解がある。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
 現在、香芝市には北今市の顕宗天皇陵と志都美神社の西方の今泉の武烈天皇陵が陵墓として治定されている。近年、日本史研究者の塚口義信氏は、本市狐井の狐井城山古墳を武烈陵に、北側に隣接する狐井稲荷古墳を顕宗陵と推定する見解を提唱されている。
当資源と関連する伝承
 狐井稲荷古墳の南方の杵築神社の境内には、水源が乏しかった時代に鎮守の森に住んでいた狐が掘り当てたという伝承をもつ「きつねの井戸」と呼ばれる古井戸があり、狐井という地名の由来となったという伝承がある。
問い合わせ先
香芝市二上山博物館
電話番号
0745-77-1700

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