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2 古墳と陵墓

  • 奈良県は古墳・陵墓の宝庫
    奈良県には古墳時代・飛鳥時代・奈良時代に中央政府がおかれていた関係で、古墳・陵墓が数多く造られました。しかも、それらが比較的良い状態で残っているのが特徴です。桜井市・天理市には最初期の古墳群やヤマト王権の初期の大王豪族の古墳が、その後の政治的中心となる飛鳥には天皇制が確立した時代の陵墓が、奈良市北部の佐紀には巨大な前方後円墳群が存在します。まさに、奈良県は古墳・陵墓の宝庫といえるでしょう。
  • 1975年に実施した石舞台古墳の周辺調査です。現在の整備される前の写真で、大型の方墳であることがよくわかります。
    古墳と陵墓の違い
    古墳とは、主に有力者の墓として3世紀半ばから7世紀にかけて造られた、土を大量に高く盛り上げた墳丘を持つ墓のことです。自然の丘を切り出して造る方法もありますが、平地に造る場合には、周溝を掘り、その土を積み上げるといった途方もなく労働力を要する築造物です。
    一方、陵墓とは、古墳の中でも特に天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬るとされるものをいいます。奈良県には、歴代天皇124人中、31人の陵墓があるとされています。陵墓の被葬者を特定することを「治定」といいますが(例えば、畝傍山東北陵を神武天皇の陵墓であると特定すること)、この治定は古くは江戸時代(元禄~文久年間)から行われていました。
  • 写真左下が箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命墓)です。その上に渋谷向山古墳(景行天皇陵)、行燈山古墳(崇神天皇陵)西殿塚古墳(手白香皇女陵)など、桜井から天理市にかけての大和古墳群の空撮です。
    奈良県に大型の古墳が多い理由
    奈良県には、五条野丸山古墳(墳丘長約310m・橿原市)、渋谷向山古墳(同300m・天理市)、箸墓古墳(同280m・桜井市)など、大型の古墳が多くあります。奈良県には古墳時代・飛鳥時代・奈良時代に中央政府がおかれていたので、奈良盆地一帯には有力者が多く居住していました。そのため、大型の古墳が多く残されていると考えられています。なお、奈良は「千年の田舎」といわれることがあります。これは、794年に奈良から京都に都が遷って以来、千年もの月日が経ったという意味ですが、古墳などの遺跡にとっては、これが大きな意味をもちます。つまり千年もの間、開発などで荒らされることが少なかったため、古墳などの遺跡がきれいな形で残っているのです。奈良に大型の古墳が多いのは、こんなところにも理由があるのかもしれません。
  • 豪華な副葬品と盗掘
    有力者たちの古墳には、豪華な副葬品が見られます。副葬品は、当初は勾玉や銅鏡などの祭祀品が中心でしたが、次第に鉄製武器や冑などの武具が多くなってきます。これは、被葬者が、祭祀王的な立場から武人的な位置づけに変わってきたことを示しています。豪華な副葬品を目当てに、盗掘がなされることもありました。奈良県では、大正時代に佐紀陵山古墳(奈良市)で盗掘事件があり、副葬品が古物屋に流れました。この事件は当時、大々的に報道されたようです。また、鎌倉時代の話ですが、桧隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ・明日香村)で盗掘事件があり、当時の調書によると、大理石を使った墓室は二室に分かれており、金銅製の扉や銀製骨臓器の存在が認められています。実はこの調書がもとになり、桧隈大内陵が天武天皇・持統天皇の陵墓であると治定されました。災い転じて福となす、といったところでしょうか。 
  • 開発から守られた陵墓
    陵墓に治定されると、宮内庁の管理下におかれ、開発行為が禁止されます。また、原則として、中に入ることも、発掘を行うこともできません。このように陵墓指定には様々な制限が伴いますが、この制限のおかげで、陵墓は高度経済成長期における開発を免れ、現在まで残されているのです。また、陵墓では宮内庁による祭祀が行われており、神武天皇陵(橿原市)には皇族の方々が成年を迎えられたときなどに参拝に来られます。

現在、私達が眺めることのできる樹木が生い茂った陵墓の景観は、長い歴史を経た奈良県独自の特筆すべき景観であるということができます。

取材先 奈良県立橿原考古学研究所
橋本裕行企画課長
持田大輔主任研究員

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