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4 奈良県の古道

  • 奈良県における古道の成立
    一口に古道と言っても、その成立の仕方は様々です。山の辺の道や葛城古道などは自然発生的な道であり、「古道」と聞いて我々がイメージするものに近いと思われます。これに対して、横大路・上ツ道・中ツ道・下ツ道などは、当時の都市計画によって造られた道です。東西あるいは南北の方位に従う直線道路であり、道幅も広く、水害を防ぐための側溝まで付いていました。このように、奈良県では、様々なタイプの古道の名残を見ることができます。
  • 御所市鴨神遺跡の道路切り通しの遺構です。
    山の辺の道・葛城古道
    山の辺の道と葛城古道は、奈良県の古道として良く知られており、四季折々、多くのハイカーでにぎわいます。山の辺の道は、古事記にもその名が記される日本最古ともいえる道であり、4世紀初頭にはすでに利用されていたと考えられています。奈良盆地の東縁にあり、桜井の海柘榴市、三輪山から、北へ連なる山裾を縫うように伸びる道で、奈良の春日山の麓、木津川へと通じています。沿道には、大神神社、石上神宮などの古社や、崇神天皇陵、景行天皇陵などの大型古墳が点在し、古代ヤマトの中心であったことをうかがわせます。一方の葛城古道は、金剛山と葛城山の東側山裾に沿って南北に続く道で、西の山の辺の道ともいわれています。ここも、高鴨神社や、葛城一言主神社など、多くの古社が点在しています。
  • 太子道・紀路
    太子道は、聖徳太子が、斑鳩から都のある飛鳥に通ったとされる道ですが、古代の文献には出てきません。その成立も6世紀末から8世紀頃までと、様々な説があります。斜行していることから「筋違道」(すじかいみち)とも呼ばれています。紀路は、飛鳥から紀ノ川河口へと続く官道であり、5世紀頃には成立していたといわれています。この道を通って、渡来人が飛鳥へ来たとされており、我が国と朝鮮半島の交流を実現するうえで重要な役割を果たしました。紀路は、日本遺産「日本国創成のとき~飛鳥を翔た女性たち~」の構成資産となっています。
  • 2012年の中ツ道発見時の写真です。東側の道路側溝(写真)。すぐ右(西)に現道
    整備された直線道路
    飛鳥、奈良時代になると、奈良盆地では、東西、南北の正方位に従う直線道路が整備されるようになります。すなわち、東西道としての横大路、南北道としての上ツ道、中ツ道、下ツ道です。いずれも官道であり、日本書紀の壬申の乱(672年)の記事の中に出てくるので、それ以前に敷設されたことが分かっています。まず、横大路は、桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山の麓の長尾神社付近までの道で、近世はお伊勢参りに使われたために、伊勢街道とも呼ばれています。南北道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道とされ、最も東側の上ツ道は、桜井市から、奈良盆地の東端の山沿いを北上し、天理市へ至ります。中ツ道は、橿原市の天の香具山北麓から、奈良市北ノ庄町に至ります。2013年、橿原考古学研究所がその遺構を見つけたと発表し、平安時代の後期まで道路として使われていたことが判明しました。下ツ道は、橿原市の見瀬丸山古墳から、平城京の朱雀大路、奈良市最北端の歌姫越へと繋がっていました。西名阪自動車道と京奈和自動車道とを結ぶ郡山下ツ道ジャンクションにその名を留めるほか、橿原市八木町の札の辻は、横大路と下ツ道が交差する場所として、往時を偲ぶことができます。
  • 2011年度の調査。過去最長の下ツ道検出。写真中央の巨大な東側溝を検出。現道もみえる。
    巨大な道路が造られた理由
    官道である横大路、上ツ道、中ツ道、下ツ道は、いずれも道幅の広い巨大な道路でした。横大路の道幅は30m前後もあったともいわれています。当時、道を通ったのは、人・馬・牛・修羅(そり)でしたので、本当にそれだけの道幅が必要であったかどうかは疑問です。歴史学説の中には、藤原京から平城京に遷都する際に、多くの寺院や建物を移動させるために必要であったという見方もあります。下ツ道では巨大な道路側溝が発見されており、運河として利用されたとも考えられています。また、外国の使節に対して巨大な道路を見せることにより、国の権力機構が整備されていることをアピールする狙いがあったともいわれています。いずれにせよ、794年に都が京都に遷ると、巨大な側溝は埋められて水田や畑となり、道路の内側には家が建てられるなど、道幅は狭くなってしまいました。

ハイキングを楽しんだり、官道の名残を訪ねたり、歴史を肌で感じたり、さまざまなパターンの楽しみ方ができるのが、奈良の古道です。地図を片手に、お気に入りの古道を訪ねてみてはいかがでしょうか。

取材先 奈良県立橿原考古学研究所
橋本裕行企画課長
持田大輔主任研究員