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9 奈良を撮った写真家

幕末から明治の初め、写真技術が西洋から入り、開港場の長崎や横浜などを中心に、写真師という職業が生まれました。最初は、フェリーチェ・ベアトなど外国人が写真館を開き、外国人相手に、当時の日本の観光写真や風俗写真を撮りました。彼らが、日本人に写真術を教えたことで全国に、多くの写真家が生まれました。その中で、明治から昭和にかけて、奈良に在住し奈良の文化財の記録や紹介、保護に貢献した3人の写真家を紹介します。
明治時代に仏像を中心に撮影し、文化財撮影の草創者と言われる工藤利三郎。大正から昭和にかけて飛鳥園を開業し、記録写真から鑑賞写真(芸術写真)に昇華させた小川晴暘。そして昭和に入り、戦後に奈良の大和路写真を確立した入江泰吉の3人です。写真家としての、生き様や人となり、代表的な作品、今の奈良との関係性などを紹介します

「工藤利三郎」 嘉永元年~昭和4年(1848~1929)

東大寺金堂 大仏殿

嘉永元年(1848)に、現在の徳島市に生まれました。東京に出て、警察に就職後、川路利良の下で西南戦争に従軍しています。戦後、徳島の藍商・坂東家の東京支店に勤務した後、明治11年(1878)、30歳で古画鑑賞会に加わり、写真班として古書画の撮影に従事して写真術を学び、美術写真家の第一歩をスタートします。わが国の古画、美術品が盗まれ、外国人に売り飛ばされている現状を知り、文化財を写真に記録しようと志したのです。その後、徳島に戻って写真館を始めますが、文化財への思いは強く、明治26年(1893)奈良の猿沢池畔に古美術専門の写真館「工藤精華堂」を開業します。法隆寺の学僧の佐伯定胤との交流をきっかけに、古社寺保存法の施行による寺社建築や仏像等の証明写真、奈良帝室博物館の開館によるおみやげ写真等の需要が追い風となります。

  • 法隆寺 玉虫厨子
  • 興福寺 阿修羅像

明治41年(1908)、60歳の時、集大成の豪華写真集「日本精華」を自費で出版します。小川一真の製版印刷所の協力も得て、コロタイプ印刷で刷った、当時の定価で1冊20円(現在の約8万円)と大変高価な写真集でした。そして、大正15年(1926)までに、全11巻を発刊しました。奈良、京都は、もちろん、日光や中尊寺など、日本を代表する美術の粋を撮影しました。今と違い、機材も重く、交通機関も無い中での、大変な労力と費用をかけた仕事であり借金までして作った本は、奈良ホテルに宿泊する海外の知識人や観光客に売れ、日本美術の海外への紹介に大いに貢献しました。現在、全巻は揃ってはいませんが奈良写真美術館に大事に保存されています。興福寺の阿修羅像、法隆寺の玉虫厨子などの、今では見ることの出来ない、文化財の修理前の全体像を撮影した写真が掲載されており、当時を知る貴重な歴史資料となっています。

利三郎の名声が高まるにつれ、岡倉天心、會津八一等の各界の著名人との交流が広がりました。またお雇い外国人医師で有名な、ドイツ人、ベルツ氏も、奈良に来ると、写真館に立ち寄っており、その日記に、工藤の養女を見舞った記録が残っています。
しかし、小川晴暘が飛鳥園を開業する頃になると、鑑賞写真が主流となり記録写真家であった工藤には活躍の場が減っていきます。晩年は人付き合いも少なくなり、養女と二人余生を送りました。「無我無欲」、「天上天下唯我独尊」を身上に、美術写真の撮影に生涯をかけ、昭和4年(1929)、82歳で亡くなります。
没後、ガラス原版の一部が奈良市に引き取られました。現在は入江泰吉記念奈良市写真美術館に当時の写真ガラス原板1025枚が保存され国の有形文化財に指定されていますが、写真集としては、奈良市教育委員会が発行(平成4年)した、「酔夢現影」が残るのみです

写真提供:入江泰吉記念奈良市写真美術館

「小川晴暘」 明治27年~昭和35年(1894~1960)

東大寺法華堂
不空羂索観音菩薩像の撮影中

明治27年(1894)、兵庫県姫路市に生まれました。上京して写真家の丸木利陽に入門します。そこで、明治天皇の御真影の撮影に携わります。一方、太平洋画会研究所で洋画を学び、大正7年(1918)には、文展の洋画部に入選します。同年、朝日新聞社写真部に入社し、奈良に住みます。大正10年(1921)、美術史家で、書家、歌人としても名高い、會津八一と出会います。八一が晴暘の石仏の写真を見て、仏像を撮ることを勧めます。そして、大正11年(1922)、朝日新聞社を退社し、奈良に古美術写真店、「飛鳥園」を創業し、會津八一との二人三脚で写真家の道を歩み出します。まず、奈良を中心に著名な寺院や博物館所蔵の仏像、建築などの撮影を始めます。この頃から美しさを強調した黒バックや、大櫓を組み通常では見られない角度から仏像を表現するなど、今までにない写真表現を確立していきます。

  • 聖林寺 十一面観音像 部分
  • 中宮寺 菩薩半跏像

大正13年(1924)、古美術専門の季刊誌「仏教美術」を創刊し、代表作の「室生寺大観」を刊行しました。昭和4年(1929)には、会津八一、浜田青陵、天沼俊一等、美術史、建築史などの専門家を顧問に迎え、東洋美術研究会を設立するとともに、「仏教美術」を「東洋美術」を改め、日本やアジアの古美術の素晴らしさを世界に発信したいという思いを具現化しました。激動の戦時中にもかかわらず、東アジアへの憧憬は深まり、仏教美術の源流を求めて、朝鮮や中国大同の雲南石窟、東南アジアのボロブドール、アンコールワット等の古美術遺跡へと撮影を拡げていきます。
戦後、家業は三男の光三氏に譲りますが、古美術と美術写真の啓蒙と普及活動に労を惜しむことはありませんでした。そして、今でも「飛鳥園」で撮影された写真は、奈良を代表する写真として生き続けているのです。

写真提供:飛鳥園

「入江泰吉」 明治38年~平成4年(1905~1992)

飛鳥大原の里初夏

明治38年(1905)、奈良に生まれ、画家を志しますが家族の反対で断念し、写真の道に進みました。大阪で、写真機材店に就職、その後、26歳で独立し、大阪・鰻谷で写真店「光藝社」を開業しました。昭和20年3月、大阪大空襲で自宅を兼ねていた店が焼失し、奈良の実家に戻ります。「アメリカ人が次々と仏像を海外に持ち出す」との噂を耳にして、奈良の仏像を写真で記録することを決意します。そして、「大和古寺風物詩」の著者、亀井勝一郎と出会いをきっかけに、大和路の仏像、風景、伝統行事の撮影に専念します。
東大寺住職で幼馴染の上司海運氏の紹介で、観音院に集う、志賀直哉、杉本健吉、會津八一等の多くの文化人と交流したことは、作品造りに大きな影響を与えます。昭和33年(1958)、小林秀雄氏に出版社の紹介を受け、初の本格的写真集「大和路」を出版し、好評を得ます。

  • 興福寺 阿修羅像
  • 蒙古の色濃き玄賓庵への道

高度成長で出版文化の華やかな時代の波に乗り、多くの写真集を出版し、個人の写真集出版の魁ともなりました。昭和30年代中頃より、時代に先駆けてカラー写真にも取り組みを始めます。
雨、雪、霧、雲などを効果的に写す、しっとりとした情感を大事にした作品は、ミスター・ウエット・イリエや入江調などと評されました。代表作の「古色大和路」、「萬葉大和路」、「花大和」の三部作が菊池寛賞を受賞し、人々の記憶に大和路のイメージを定着させました。穏やかな人柄に見えますが、妥協しない、一瞬の僥倖を待つ仕事ぶりは、今も語り草になっています。晩年は、奈良の風景が荒廃するのを嘆き、花は美の究極であると、万葉の花を撮り続けました。

1992年、奈良市に入江泰吉記念写真美術館が開館、入江の全作品が所蔵されました。
また、生誕110年にあたる2015年に、水門町に在る旧宅が開放され、今も文化サロンとして活動しています。現在も、入江作品は、輝きを失うことなく、生き続けています。

写真提供:入江泰吉記念奈良市写真美術館