ブックタイトル祈りの回廊 2016年3月~9月 春夏版

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概要

祈りの回廊 2016年3月~9月 春夏版

奈良を代表する社寺にインタビュー特別講話―石田長老にとって鑑真和上と席、趙紫陽首相(いずれも当時)も願っています。興に生涯を捧げられました。真富の差も、敵も味方もなく和みりにおいでください。立されました。廟には、中国の胡錦濤国家主を持ってもらえればと、私ども非常に嘆かれ、西大寺で戒律復みすることには「一味和合」、貧うぞ真摯に祈る心を持ってお参たが、8世紀末頃には金堂も建一般の方々はもちろん、寺の御方々が、明るい、大きな気持ちが増えていたことを叡尊上人はんだのですが、一つの碗で回し飲悔も、寺は全て受け入れます。ど造した講堂などがあるだけでしているのでしょうか。うことです。参拝に来られた贅沢すぎる生活をしていた僧侶せんから、酒盛ならぬ茶盛と呼も人間です。祈りも、反省も、懺蔵、平城宮の東朝集殿を移築改国との懸け橋になってくださっ広く、大きな気持ちを持つといと称えられた興正菩薩・叡尊ですね。されたのです。寺で酒は飲めまとで厚みを増すことができるの初は米こめぐら蔵を改造した経蔵や宝―鑑真和上が古代より日本と中こられました。仏になるとは、―西大寺中興の祖「生身の釈迦」薬とされていたお茶を民衆に施犯しますが、過ちを反省するこれが唐招提寺の始まりです。当うに艶がありました。和上は命を懸けて海を渡って待たなければなりませんでした。人は、茶盛を通じて、当時高価なす。人間は煩悩のために過ちをぶための道場を開きました。こお顔は、まるで風呂上がりのよれと私たちに伝えるため、鑑真時代、叡えいそん尊上人が入られるまで困窮者救済に尽くされた叡尊上も役立とうという思いが大切で田部親王の旧宅地で、戒律を学造ってくださり、出来上がりの守り、生きているうちに仏にな興は、時代がぐっと下がった鎌倉振る舞ったことに由来します。る心、そして、人のために少しで津へ上陸。翌年から東大寺で年を過ごした後、下賜された新5と同じ脱活乾漆造できれいにらっしゃったのでしょう。戒をになると衰退していきます。再茶した余服を叡尊上人が民衆に提だい下げ化け衆しゅ生じょ」う。向上しようとすされたようです。それでも本物和上の「不殺生戒」を継いでいも、都が京都に遷った平安時代1239年1月、八幡神社に献パワーをいただけます。「じ上ょう求ぐ菩ぼ航で今の鹿児島県南さつま市坊所も、その彩色にはかなり苦労が由来です。覚盛上人は、鑑真えられる大寺院であった西大寺尊上人由来の行事だそうですね。れば、人智では測れない大きなの失明を乗り越え、6度目の渡をお願いした美術院国宝修理の尼僧がうちわを供えたことものです。南都七大寺の一つに数―春と秋の茶儀「大茶盛」も、叡入るような心がけで手を合わせそうして、5度の失敗、その間供養を行ったのですが、制作払ってさしあげようと法華寺られた邪鬼の一つは創建当時の返させたまえと祈っています。ではなく、ご本尊さんのお気に一人でも行くと宣言されます。製した「お身代わり像」の開眼なられた時、せめてこれで蚊を作に代わっていますが、踏みつけを傷つけることなく船ごと吹きす。建築美術だけを見て回るの真和上は、弟子が行かないなら2013年、鑑真和上坐像を複ないと諭されたことから、亡くいう四天王像は、本体は後世の八幡宮で行った祈祷では、敵兵て寺の存在意義があると思いまいほど危険なことでしたが、鑑した。1250年忌に当たるうとする弟子に、殺してはいけじきじきに鋳造に携わられたとまた、元寇の折に京都の石清水そ、心の癒しを得られる場とし航は死を覚悟しなければならな布切れを縫い合わせたものでをお願いしたのです。当時、渡なく、「糞ふん掃ぞ衣うえ」という、粗末な普ふし照ょうと栄よう叡えいが、鑑真和上に来日袈裟もきらびやかなものでは「分中ちの5月ゅう体興こうに19日忌きとに梵ぼ網んま行も会うっっえたて」いと蚊まいをすいた。、たご毎こ自年華麗な大伽藍でした。称徳天皇宇治茶隆盛につながっています。和であって平和でない今の世こ三彩の瓦が使われるなど、豪壮栽培を教えました。これが今のら打ち明けられる。世知辛く、平や東西の五重塔が建ち並び、唐漁をやめさせ、代わりにお茶の親に言えない悩みも、仏様になに渡った大安寺と興福寺の僧、質素にされていた鑑真和上は、人の命日法要です。正しくはドと同じ広さの敷地の中にお堂て、叡尊上人は宇治川の漁師に考えですか。が多かったのです。このため、唐います。戒を守り、できるだけの祖で、「うちわまき」は上るのですが、東京ディズニーランその一つ「不殺生戒」の実践としはどういった役割を果たせるとお僧(自分で出家を宣言した僧侶)わなければならないと思って復興運動を進められた中興が造立され、西大寺が創建されて世の中が平和になるのです。―大矢長老は、現代の人々にお寺けられる伝戒師がおらず、私度及びませんが、その心は見習覚盛上人は鎌倉時代に戒律平定し、翌765年に四天王像いやりが生まれ、それがつながっうこと1万余回と伝わります。まで日本には僧に正式に戒を授心を貫かれた。我々では到底法要のいわれを教えてください。願されたのが始まりです。乱を分が幸せになってこそ、他への思こと1350余か所、餓者を救によって建立されました。それめに身命も惜しまぬ覚悟で初るため唐から来日した鑑真和上れでも鑑真和上は、仏道のたれ―るそ覚かくのじ盛ょう鑑上真人和と上の、「再う来ちとわもま称きさ」を孝謙上皇(後の称徳天皇)が発て、戒はあります。戒を守り自余人、漁猟を禁じて放生を行う764年に金銅の四天王像造立幸せに生きるための決め事としい人々に至るまで6万6000唐招提寺は759年、戒を伝え引き止められてもいます。そとができました。恵美押勝の謀議鎮圧を祈願し、に交通ルールがあるのと同じで、授けた者は朝廷・幕府から貧し―唐招提寺の縁起を教えてください。くない弟子の密告により、度々くださるご縁を深く感じるこ―西大寺の縁起を教えてください。方もいますが、車を運転するの律の講義1万700余回、戒をとなりますよね。唐から出した迎を受け、鑑真和上がつないでうと、縛ることのように捉える続けられました。その生涯に戒つ鑑な真ぐ和懸上けが橋であれば、もうやめておこうかたのですが、どこでも大変な歓5度も渡航に失敗すれば、我々念館」などを1週間かけて回っはどんな人物ですか。地・張家港にある寧波・阿あしょかおうじ育王寺、「鑑6度真目東の渡出記港一叡味尊和上合人のと精神で実践されたのです。戒律とい実践できると、市中での布教を仏様の慈悲心を、体・言葉・心ともに生きてこそ釈迦の教えを言密教で言う「十善戒」、つまりありますが、叡尊上人は大衆とうと山奥で修行するイメージが特別講話13日に挫折した際とどまられたられたそうです。また、密教といれた揚州・大明寺、3度目の渡めたなけなしのお布施は受けとてきました。住職を務めておら切断る一方で、貧しい人たちが集国での足跡を訪ねる旅に行っ叡尊上人は幕府からの寄進を一唐招提寺いしだ長老石田と訪中団を組み、鑑真和上の中ことに驚かれますね。に、日中文化交流協会の方などの香りがいっぱいに感じられるだって、松浦俊海前長老を団長る。体験された方は皆さん、お茶ち智えん圓1935年三重県伊賀市(旧上野市)生まれ。1959年唐招提寺戒壇にて具足戒受戒。戒和尚は第81世長老森本孝順師。1976年西方院住職拝命。1984年西方院本堂落慶および本尊阿弥陀如来(重文)遷座式。1995年唐招提寺執事拝命。2011年10月律宗管長・唐招提寺第87世長老就任。(大僧正となる。)同年11月東大寺授戒会伝戒和尚を務める。2013年鑑真大和上1250年御諱法要導師を務め、大和上平成御影像を開眼供養。特別講話14も大変な誇りなのです。実は先西大寺おおやじつえん長老大矢實圓飲もうとすると顔がすっぽり入和上は中国の人々にとって今1935年、京都府生まれ。1946年、長福寺住職松本實道師の従弟として入寺。1959年、高野山大学密教学科卒業。1983年、西大寺執事。1999年、寶山寺貫主・長福寺住職に就任。2007年、東寺で後七日御修法大阿奉修。2008年4月、真言律宗管長・真言律宗総本山西大寺長老に就任、現在に至る。真言律宗大本山寶山寺貫主・長福寺住職。ます。何しろ大きな碗ですから、も墓参りに来られました。鑑真合おうとの意味も込められてい特別講話8