ブックタイトルなら記紀・万葉 名所図会 古事記神様・人物入門編

ページ
19/32

このページは なら記紀・万葉 名所図会 古事記神様・人物入門編 の電子ブックに掲載されている19ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

なら記紀・万葉 名所図会 古事記神様・人物入門編

196古事記新聞伊い耶ざ那な岐き命のみことと伊い耶ざ那な美み命のみことはおしどり夫婦として知られてきた。それだけに妻に先立たれた伊耶那岐命の悲しみは生なまはんか半可なものではなかった。妻にすがりつき、涙し続けた。その涙からは泣なきさわ沢女め神のかとみいう神様が生まれたほどである。伊耶那岐命は亡くなった愛妻に会いたい一心で、死者の行く黄よもつ泉国くにへ向かう。そこで伊耶那美命に会い、「一緒に帰ろう」と呼びかける。伊耶那美命もまた「帰りたい。黄泉国の神様に相談してきます。その間は私を見ないでください」と答える。しかし、伊耶那岐命はその約束を守れなかった。相談してくると言った妻が、なかなか現れないことにしびれを切らしてしまったのだ。そう天皇のもとに戻ると、今度は東征が命じられた。「父上は、私に死ねと思っているのだ」と悲嘆に暮れる倭建命。そして、その言葉通り、この後、倭建命が大和の地を生きて踏むことはなかった。相さがむ模国のくにでは焼き討ちに合うも叔母である倭やまと比ひ売め命のみことから授けられた火打石と草なぎの剣で反撃に成功、走水の海峡では荒れる波のため転覆の危機に陥るが、愛妻・弟おとたちばな橘比ひ売め命のみことが命を投げ打って入水、波が静まり九死に一生を得るなど、度重なるピンチをかいくぐったのは、さすがとしか言いようがない。しかし、そんな奇跡が、倭建命を尊大にしたのだろうか。伊吹山で、神の化身であった巨大な白猪に不用意な発言をし、怒りを買った結果、激しい氷雨を降らされ、衰弱しきってしまう。その後、杖をついて歩くなど、りりしかった頃の姿は見る影もなく、大和へ向かう途中の野の煩ぼ野ので力尽きてしまった。倭建命のこの歌からは、故郷大和への慕情が溢れんばかりだ。倭建命の后や子どもたちは訃報を受け取ると、終しゅうえん焉の地へ赴き、泣き悲しんだ。すると倭建命が一羽の大きな白い千鳥となって飛び立ったという。その望郷の念の切実さに胸が締め付けられるばかりである。倭やまとは国の真ま秀ほろばたたなづく青垣山籠ごもれる倭し麗うるはし世紀の美形として名を馳せた倭やまと建たける命のみこと。彼はなぜ、故郷を遠く離れた場所で、一生を終えねばならなかったのか。ボタンの掛け違いは、倭建命の少年時代に遡る。父の大おお帯たらし日ひ子こ淤お斯し呂ろ和わ気け天のすめらみこと皇(景行天皇)が召し上げた女性に手を出した兄。父の言葉を曲解し、倭建命は兄を殺す。しかし、その荒々しい心を恐れ、息子である倭建命を疎うとむ父。父は倭建命に、熊曾征討を言いつける。それは体のいい厄介払いであった。それでも倭建命は父の命に従い、熊曾建兄弟を討ち取る。その際に取った策謀は、まさかの女装。美少年の誉れ高い倭建命の女装は、多くの婦女子の賞賛を得た。地元の人々にとっても、楽しく、同時に誇らしい出来事であったようだ。そのときの様子を伝える国くずそう栖奏という伝統行事があり、そこでは今現在に至るまで「白檮の……」の歌が歌われ続けている。興味のある方は、浄見原神社(吉野町)で旧暦1月14日に行われる祭事を訪れてみてはいかがだろう。なお、足元が滑りやすい環境なので、くれぐれも注意していただくようお願いしたい。大おお雀さざき命のみこと(のちの仁徳天皇)が吉野を訪問された。その際、大雀命が腰につけていた刀を人々が賞賛して、「誉ほむた田の日の御み子こ大雀大雀佩はかせる大た刀ち本もとつる吊ぎ末すゑふ振ゆ冬木の素す幹からが下したき木のさやさや」との歌を贈り、大雀命もたいそう上機嫌な様子がうかがえた。同地には、大雀命の父上である品ほむ陀だ和わ気け命のみこと(応神天皇)も行幸されている。このときも地域は祝賀ムードに湧き立った。酒、食事を用意して、天皇を歓待。このときも「白か檮しの生ふに横よくす臼を作り横臼に醸かみし大おほみ御酒き美う味まらに聞きこしもち飲をせまろが父ち」の歌が奉じられた。して「見るな」と言われたのに見ると妻の身体には、うじ虫と八つの雷神が巣食っていた。「よくも恥をかかせてくれたな!」。夫に裏切られた伊耶那美命は怒り狂った。逃げる伊耶那岐命に次々と刺客を放ち、最後は黄よもつ泉ひら坂で自ら伊耶那岐命を追い詰めたが、伊耶那岐命は巨岩で道を塞ふさぎ、妻の手から逃れた。死でさえ分かつことができなかった夫婦愛が、一つの禁を破ったことで恐ろしくも悲惨な結末を招いた。伊耶那岐命の涙から生まれた静かな美しい神・泣沢女神は天香具山麓にある畝尾都多本神社(橿原市)に鎮座している。この離別を、どのような思いで見ているだろうか。待てなかった男、見られたくなかった女長い旅路の終わり、望郷の想いかなわず褒めて飲んで歌って「お・も・て・な・し・♪」哀楽怒怒哀楽浄見原神社きよみはらじんじゃ?MAP P31畝尾都多本神社うねおつたもとじんじゃ?MAP P28倭建命歌碑(桜井市)?MAP P27上巻中巻中巻『古事記』の時代に新聞があればどんな感じになるのか?大おお雀さざき命のみこと(のちの仁徳天皇)が吉野を訪問された。その際、大雀命が腰につけていた刀を人々が賞賛して、「誉ほむた田の日の御み子こ大雀大雀佩はかせる大た刀ち本もとつる吊ぎ末すゑふ振ゆ冬木の素す幹からが下したき木のさやさや」との歌を贈り、大雀命もたいそう上機嫌な様子がうかがえた。同地には、大雀命の父上である品ほむ陀だ和わ気け命のみこと(応神天皇)も行幸されている。このときも地域は祝賀ムードに湧き立った。酒、食事を用意して、天皇を歓待。「白か檮しの生ふに横よくす臼を作り横臼に醸かみし大おほみ御酒き美う味まらに聞きこしもち飲をせまろが父ち」の歌が奉じられた。