ブックタイトルなら記紀・万葉 名所図会 ―日本書紀・旅編―
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なら記紀・万葉 名所図会 ―日本書紀・旅編―
行燈山古墳は宮内庁により第10代崇神天皇の陵墓に定められています。書紀にその名を称して「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とあり、天皇の支配がはじめて全国に及んだことから、そう呼ばれたとされています。桜井市三輪1422? 0744-42-6633JR万葉まほろば線三輪駅より徒歩約10分桜井市三輪? 0744-42-6633(大神神社)JR万葉まほろば線三輪駅より徒歩約10分桜井市箸中? 0744-22-3338(宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所)JR万葉まほろば線巻向駅より徒歩約15分 渋谷向山古墳は宮内庁により第12代景行天皇の陵墓に定められています。書紀によると、景行天皇は熊襲(くまそ)の反乱を平定するため自ら九州へ赴き7年間にわたって転戦しました。その後、再び熊襲が反乱を起こしたため、今度は皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣して平定させたとされています。 倭迹迹日百襲姫命は夫である大物主神の正体が美麗な小蛇であるのを知って驚き、神は恥をかかされたと三輪山へ飛び去りました。姫は後悔してしりもちをつき、「箸」で陰部を突き亡くなりました。それで世間の人はその墓を「箸墓」と名付けたと書紀に記されています。現在、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓ではないかといわれています。5 6前方後円墳が隠れ、横たわるまほろばの郷を巡ってヤマト王権の発展~当時の権力を示す巨大古墳~約35分16.5km垂仁天皇陵約25分10.9km崇神天皇陵景行天皇陵相撲神社箸墓古墳大直禰子神社大神神社約5分0.9km約5分2.4km約5分2.1km約5分0.2km約5分1.5km糸井神社周遊ルート案内 ●総移動距離:34.5km ●所要時間:約1 時間25 分 大物主神の子である大田田根子命(おおたたねこのみこと)を祀っています。書紀に、大田田根子命は崇神天皇の時代に疫病が蔓延し、それを鎮めるために大物主神を祀った祭主であるとあります。元は大神神社の神宮寺であった大御輪寺(だいごりんじ)でしたが、明治時代の神仏分離令により、若宮社となりました。 『延喜式神名帳』に記されている古社で、崇神天皇の皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりびめのみこと)を祭神とします。神社名「糸井」からも推定されるように綾羽(あやは)・呉羽(くれは)という機織りの神も祀ったと伝えられています。拝殿に奉納された「おかげ踊り絵馬」「太鼓踊り絵馬」は県指定文化財で一見の価値があります。 宝来山古墳は、宮内庁により第11代垂仁天皇の陵墓に定められている前方後円墳です。垂仁天皇は死に際して、海のかなたの常世(とこよ)の国に田道間守(たじまもり)を派遣して、不老不死の果実である非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させましたが、田道間守が帰国したとき垂仁天皇はすでに亡くなったあとでした。P25, D-211 349 068*78MAP P25, D-536 888 481*74MAP奈良市尼辻西町? 0744-22-3338(宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所)近鉄橿原線尼ヶ辻駅より徒歩約5分磯城郡川西町結崎68? 0745-44-0434近鉄橿原線結崎駅より徒歩約15分葛城市當麻? 0745-48-4611(相撲館「けはや座」)近鉄南大阪線当麻寺駅より徒歩約5分 相撲の始祖として知られ、垂仁天皇が天下の大力士だと称した當麻蹶速の塚と伝えられている五輪塔です。すぐ横には相撲資料館の「けはや座」があり、その展示土俵には自由に上がることができます。 日本最古の神社の一つであり、拝殿のみで三輪山自体を御神体としています。書紀では大国主神の国造りの際、海から光りながらやってきた大物主神の魂を三輪山に住まわせたのが大三輪の神だとしています。さらに崇神天皇の時代に疫病が流行し、三輪の大神である大物主神を祀ると疫病が治まったとあります。酒の神としても有名です。拝殿は江戸時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。天理市柳本町? 0744-22-3338(宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所)JR万葉まほろば線柳本駅より徒歩約10分P26, F-536 806 596*73MAP桜井市穴師? 0744-42-6420(穴師坐兵主神社)JR万葉まほろば線巻向駅より徒歩約25分 垂仁天皇の時代に、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力比べをして、宿禰が蹶速を倒したとあります。これが相撲の始まりとされ、ふたりがここで戦ったとされています。また、宿禰は人の代わりに埴輪を陵墓に並べることを提案し、埴輪作りの祖ともいわれています。ちょっと寄り道宇陀郡曽爾村太良路? 0745-94-2106(曽爾村観光協会)近鉄大阪線名張駅よりバス約50分、「太良路」バス停下車後、徒歩約60分宇陀郡御杖村神末1020? 0745-95-2070(御杖村観光協会)近鉄大阪線榛原駅よりバス約50分、「掛西口」バス停下車、バス乗継約30分「神末中村」バス停下車 書紀には、垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の鎮座地を求めて菟田、近江、美濃を巡り、伊勢に至ったとあります。その候補地として杖を残したとされる伝承地であり、その杖を祀っていることから「御杖」と呼ばれるようになったと伝えられています。P23, F-3342 248 829*55MAP大美和の杜(おおみわのもり)展望台は、大和平野を眺望できる絶好のスポットです。古墳の壕(ほり)には、田道間守の墓と伝わる小島があります。 奈良盆地南東部で、日本列島を広く支配した大王(天皇)を中心とした王権が確立していきます。まさしく「やまとは国のまほろば」(やまとは国の中でもっともすぐれている場所)です。その首長たちが採用した墳墓のかたちが、前方後円墳です。そこでは、遺体が安置されていただけでなく祭祀も行われていたとされています。 これらの古墳は、現在のように、その上に木がうっそうと繁っていたわけではありません。つくられた当初は、風雨による盛り土の流出を防ぐため等に、葺石というこぶし大の大きさの石を墳丘の斜面にきっちりとならべていました。当時の権力者は墳墓をより巨大に、立派につくることで自分の権力を示そうとしたとされています。 その中でも、三輪山山麓の纏向にある箸墓古墳の大きさは全長278mと巨大です。実際に足を運んでみると、そのスケールの大きさがわかります。書紀によると、箸墓古墳は、大物主神の妻であった倭迹迹日百襲姫命の墓とされ、昼は人、夜は神が造ったと記されています。初期のヤマト王権は、この三輪山周辺を中心に展開したと考えられています。その当時の天皇である崇神天皇や垂仁天皇、景行天皇にゆかりのある場所を巡ってみてはいかがでしょうか。三輪山は、昔から大物主神が鎮まる神の山として信仰されています。おおきみふきいしまきむくはしはかやまとととひももそびめのみことおおものぬしのかみ垂仁天皇陵(宝来山古墳) すいにんてんのうりょう ほうらいやまこふん糸井神社いといじんじゃ崇神天皇陵(行燈山古墳) すじんてんのうりょう あんどんやまこふんP26, F-636 776 597*14MAP 景行天皇陵(渋谷向山古墳) けいこうてんのうりょう しぶたにむかいやまこふんP26, F-636 777 029*86MAP 相撲神社すもうじんじゃP28, E-136 717 040*13MAP 大直禰子神社(若宮社)おおたたねこじんじゃわかみやしゃP26, F-636 746 152*51MAP 箸墓古墳はしはかこふんP28, E-136 717 040*13MAP 大神神社おおみわじんじゃ御杖神社みつえじんじゃP23, F-3342 334 739*77MAP曽爾高原そにこうげんP27, A-136 639 410*46MAP 當麻蹶速塚たいまのけはやづか 仁徳天皇の求婚を断った雌鳥皇女(めとりのひめみこ)が、愛する隼別皇子(はやぶさわけのみこ)とともに仁徳天皇の追手から逃げ隠れた舞台とされています。この地は、秋のススキが有名です。天理市渋谷町? 0744-22-3338(宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所)JR万葉まほろば線巻向駅より徒歩約10分169P 拝所景行天皇陵(渋谷向山古墳)至 巻向駅369P道標三峰山みつえ青少年旅行村方面への案内標識すぐに左へ御杖神社神末中村バス停至 御杖村役場165PP30160(有料)當麻寺 當麻蹶速塚当麻寺駅市営観光駐車場交番 相撲館けはや座至 當麻寺近鉄南大阪線P大神神社大直禰子神社(若宮社)三輪駅大美和の杜展望台至 三輪参道 入口交差点JR万葉まほろば線308308拝所田道間守命塚垂仁天皇陵尼ヶ辻駅近鉄橿原線197108108寺 川糸井神社白山神社至 結崎駅川西町役場太子道169P拝所崇神天皇陵(行燈山古墳)柳本至 柳本駅相撲神社景行天皇纏向日代宮伝承地景行天皇纏向日代宮跡碑鳥居至 巻向駅169拝所箸墓古墳箸箸中中南南桜井認定こども園至 巻向駅