ブックタイトル名所図会 日本書紀ことはじめ編

ページ
16/32

このページは 名所図会 日本書紀ことはじめ編 の電子ブックに掲載されている16ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

名所図会 日本書紀ことはじめ編

した。天皇は「これほどすばらしい教えは聞いを献上して仏法の流る布ふと礼拝の功く徳どくを伝えま年(552年)には釈迦仏の金銅像・経きょう論ろんなど(一丈六尺)の仏像を造り、また欽明天皇十三そのような中で、聖明王は天皇のために丈六百済を援助しました。任みま那なの復興を命じ、軍勢を遣わし武器を送って天あめ国くに排おし開はらき広ひろ庭にわの天すめ皇らみ(こと欽きん明めい天てん皇のう)は、聖明王にしてきました。たびたび日本に朝貢し援軍を派遣するよう要請羅から圧迫を受けていた百済は、王おうが即位しました。新寧ねい王おうが薨こうじ、聖せい明めい百済では武ぶ「神か仏か」巻第十九欽明天皇(仏)を拝んでは、国神の怒りにふれましょう」の神々がいます。それを改めて新しい外国の神は「日本には、これまでお祀りしてきた八や百お万よろず言いました。一方、物ものの部べの大おお連むらじ尾お輿こしと中なか臣とみの連むらじ鎌かま子こます。日本だけが背くわけにはいきません」と出て「諸外国はこぞって礼拝しているといいとたずねました。すると、蘇そ我がの大おお臣おみ稲いな目めが進みど荘厳で美しい。これを礼拝すべきかどうか」された仏像は、いまだかつて見たこともないほたことがない」とたいそう喜び、臣下に「献上仏教公こう伝でん時の日本14し信ぎさん貴山ちょうご朝護そん孫しじ子寺▲MAP P29生駒郡平群町信貴山『日本書紀』には、用明天皇2年(587年)、厩戸皇子が物部守屋討伐の軍に従っていた折、四天王の像を作り戦勝を願ったとある。寺伝では、太子が信貴山で祈った際、寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天が現れその加護により勝利したため、太子自ら「信ずべし貴ぶべき山『信貴山』」と命名し、創建されたと伝えられている。せそんじ世尊寺吉野郡大淀町比曽762▲MAP P31本尊の阿弥陀如来坐像は別名を「放光樟像」という。『日本書紀』において「欽明天皇14年(553年)、河内国の海で雷のような音を出しながら光る樟(くす)が浮いているのが発見され、天皇が仏像を造らせた。吉野寺の光を放つ樟の仏像がこれである」と記述がある。現在の世尊寺が吉野寺であると考えられている。国指定の史跡「比曽寺跡」でもある。ぶっきょうでんらいの仏教伝来之桜井市金屋ち地ひ碑つばいち)(海柘榴市▲MAP P29『日本書紀』によると欽明天皇13年(552年)、百済の使者がこの地に釈迦仏の金銅像や経典を献上して仏教が伝来したという。また、聖徳太子の元でその才能を発揮した遣隋使の小野妹子が帰国したのもこのあたりとされる。古代、いくつかの道が交差し、水上交通においても要所であった当地には、海柘榴市(つばいち)というわが国最初の市があったとされている。571 570 562 557 554553552545541540崩大お新百戦新百仏茅論仏※蓋聖を百興百割大おちおお御臣5事複書お羅済死羅済像渟・済譲連むぬ争像明造済をらじみの蘇3、王と、二に礼で数紀教経王る、命のの大おそ海8』天責お我あの公論ず伴とが任子の援体よな拝年伝、聖任もののる成稲書な皇い那余戦軍をるのをる金かより物立の釈明なとどのを村な目むを昌しいを造可そめ記にとょ樟年迦王問ら宿の近をた、す滅、で要ら否う年載「に仏にわく木い奉め百禰ぼ威、請せをねいがとが戊つの詔れ年るに済薨す徳百とる巡すあ午い金し失檜み代丈へくひじ王済おっるる年て脚のに銅ての隈うくまのるとのつて説こ」は六書任坂な聖か群もとの像の任さか、『那か合いる明り臣あか出れ日14・仏那四の陵王、、るらみ来た本幡像復県ささ。ぎ、巻第十九仏磯し城き島しまの金かな刺さしの宮みやに遷都欽明天皇539蝦え夷みし・隼はや人ひとが帰順する欽きん明めい天皇即位宣化天皇16