ブックタイトル名所図会 日本書紀ことはじめ編

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概要

名所図会 日本書紀ことはじめ編

ほうりゅうじ法隆寺MAP P29生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1推古天皇9年(601年)に聖徳太子は飛鳥から斑鳩の地に移ることを決め、斑鳩宮を造営し、605年に移った。法隆寺はこの宮に隣接して創建され、現在へと続いている。「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産に登録されており、鞍作鳥による釈迦三尊像をはじめとした多くの国宝を有する。たちばなでら▲橘寺MAP P30高市郡明日香村橘532聖徳太子生誕の地と伝わる寺。名は垂仁天皇の命令で田道間守(たじまもり)が持ち帰った不老不死の果物・橘の実に由来する。『日本書紀』には「橘の尼寺」と記されており、当時は向かいにある川原寺と対であったと考えられている。境内には善と悪を表すという「二面石」がある。▲ています。系譜や治績をまとめた歴史書を編纂したとされもに、『天てん皇のう記き』や『国こっ記き』、諸氏族の『本ほん記ぎ』など、くりをすすめたとされています。また、馬子とと十七条を定めるなど、天皇に従い仏教を尊ぶ国づ設け、臣下としての道徳的な心構えとして憲法大徳小徳大仁小仁大礼小礼大信小信大聖徳太子は役人の位を12に分け、冠の色で区別しました。位が高いの色の違いで位を表す冠位十二階という制度を冠位十二階太子は、能力に応じて個人に対し位を与え、冠義小義大智小智位が低いの一切を任せたとされます。冠位十二階・憲法十七条らに通ふ。何事か成らざらむと。(抜粋)戸との豊とよ聡と耳みみの皇み子こ/聖しょう徳とく太たい子し)を皇太子に立てて政務びて、事を論あげつらふに諧かなふときは、事じ理り自おのづかが天皇の位を継ぎました。天皇は、厩戸皇子(厩乍あるいは隣りん里りに違たがうまやふ。然しかれども、上かみ和やわらぎ下しも睦むつ挙されたのを受けて、豊とよ御み食け炊かしき屋や姫ひめの尊みこと(推すい古こ天てん皇のう)少し。是ここを以もちて、或あるいは君父に順したがはず、憲法十七条と無きを宗むねとせよ。人ひと皆みな党ともがら有り、亦また達さとる者たため皇位が空いていましたが、臣下から強く推一に曰いはく、和を以もちて貴とうとしとし、忤さかふるこ泊はつ瀬せ部べの皇み子こ(崇す峻しゅん天てん皇のう)が蘇我馬子に殺害され厩うまや戸との皇み子この政治16巻第二十二推古天皇人徳と政治手腕を併あわせ持つ蘇我蝦夷蘇我馬子小姉君崇峻天皇32蘇我稲目穴穂部皇子刀自古郎女蘇我入鹿数字は『皇統譜』が定める即位の順は婚姻関係蘇我氏系図堅塩姫穴穂部間人皇女聖徳太子山背大兄王用明天皇31欽明天皇29推古天皇33 30橘大郎女菟道貝蛸皇女敏達天皇竹田皇子石姫尾張皇子いしぶたいこふん石舞台古墳MAP P30高市郡明日香村島庄大きな石でできた舞台のようだが、周りの土が流れ横穴式石室がむき出しとなった古墳である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)に、「大臣(蘇我馬子)が亡くなったので桃原墓(ももはらのはか)に葬った」との記述があり、この桃原墓が石舞台古墳であると考えられている。▲治への介入が目立つようになります。蘇我氏に太刀打ちできる氏族もいなくなり、政した。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼすと、その後はるなど、天皇家との結びつきを強固にしていきま勢力争いを続ける一方、複数の娘を天皇に嫁がせ仏教をいち早く受容した蘇我氏は、物部氏と政略結婚で握った実権蘇そ我が氏しの台たい頭とう書』)倭国、隋に遣使・朝貢(『隋608と小も野に妹帰子国、隋の使者裴はい世せい清せいと国書の無礼を怒る(『隋書』)倭王、隋に遣使。隋の煬よう帝だ607小お野のの妹いも子こを隋に派遣い、そ17の606寺丈(六飛の鳥仏寺像)の完金成堂、に銅安像置を元興太子、斑鳩宮に移る605604作つ丈憲くりの鳥と六法りをの十造仏七仏像条のをを工造制匠り定とす始るめる。鞍くら冠位十二階を施行16603小お墾はり田たの宮みやに遷都文・地理の書などを奉る百済僧観かん勒ろく来朝。暦本と天602601来太く目め子の、し、軍兵二万五千を授ける皇み子こを新羅攻撃の将軍とい斑かる鳩がの宮みやを造営を攻撃させる大将軍として任那を助け新羅新羅と任那が戦う。境さかい部べの臣おみを600 596法興寺の造営完成倭国、隋に遣使(『隋書』)となる595高麗の僧慧え慈じ来朝、太子の師594詔推し古て天仏皇教、を太興子隆とさせ蘇る我馬子に葬。四天王寺を造り始める用明天皇を河こう内ちの磯し長ながの陵みささにぎ改推古天皇593592厩うまや推戸と古の豊と天よ聡皇と、を皇太子に立て摂政とする耳みみの皇み子こ(聖徳太子)豊とゆ浦らの宮みやで即位崇峻天皇巻第二十二18