ブックタイトル名所図会 日本書紀ことはじめ編

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概要

名所図会 日本書紀ことはじめ編

長安洛陽隋(参考)『古代史の論点4』(小学館)『帰化人と古代国家』(吉川弘文館)遣隋使航路地図(7世紀前半)登州青州高句麗平壌百済新羅博多津難波日本飛鳥の天子に致す。恙つつがなきや…」と書かれており、隋罪を問わなかったということです。容について「日出ずる処の天子、書を日没する処責めて流刑を求めましたが、天皇は妹子を許し、ます。『隋書』によると、日本が献上した国書の内てしまいました」と伝えました。群臣は失態をという記事が見え、『日本書紀』の記述と合致しかりましたが、百済国を経由するときに盗まれ書『隋ずい書しょ』にも同年に日本から使節がやってきた妹子は翌年帰国し、「隋の皇帝から国書を授を隋ずいに遣わしました。このことは、中国側の歴史今後自分に見せるな」と言ったとあります。推古天皇十五年(607年)、天皇は小お野のの妹いも子この皇帝・煬よう帝だいはこれを見て「無礼な蕃ばん夷いの書は、遣けん隋ずい使しと日ひ出いずる処とこのろ天てん子し積極的な外交を展開17だるまじ達磨れています。寺はじまりとさのが達磨寺の磨像を祀ったといわれる達が自ら刻んだ▲て、聖徳太子MAPP29のそ上しにて堂こをの立墓噂しました。りであろうと後に人々は、あの方は達だる磨ま大たい師しの生まれ変わは消え、服が棺の上に畳んであったといいます。岡に埋葬させました。後日、不思議とその亡なき骸がらと、その人は死んでいました。太子は悲しみ、片け食物を与えて帰りましたが次の日使いをやるがなかったので、太子はその人の背に衣服をかた人が道に倒れていました。話しかけても返事ある日、太子が片岡にでかけたところ、飢えす。『日本書紀』には不思議な話があります。りなく聞き分けられる聡明な人物だと伝わりま聖徳太子は、一度に十人の訴えを聞いても誤聖徳太子の不思議な伝説18たいしみち太子道(斑鳩?飛鳥)(写真は黒駒に乗る太子像)はくさん▲MAP P29白山神社磯城郡三宅町屏風聖徳太子が住居である「斑鳩の里」から職場の「飛鳥の宮」を往復して通ったとされる道を太子道とよぶ。途中の「三宅の原」にはここで食事と休憩を取ったという「腰掛石」があるほか、白山神社向かいの屏風杵築神社には「太子接待の絵馬」が残されている。※この年表は『日本書紀』の内容をつかむため、記載されている天皇年号を便宜上西暦に置きかえています。皇極天皇舒明天皇641百済宮で崩御滑なめ谷だにの岡おかに葬る南淵請安・高向玄理帰国640639636厩う百くま坂さ済だかのらの宮みやに滞在宮みや・百済大寺を建造岡本宮火災、田た中なかの宮みやに遷都飛あ鳥すか岡おか本もとの宮みやに遷都630629す犬舒(上明第御天一田皇回鍬即遣と位唐使恵え)日にちを唐に遣わ夷しに殺されるちの舒じ推す境ょ明め部い天摩ま皇理り)勢せを、推田た村むすらの皇み蘇我蝦えみ皇嗣定まらず。山やま背しろの大おお兄えの王みこ子こ(のを遺詔により竹たけ田だの皇み子このみ陵ささぎに葬る628626崩蘇御我馬子薨こうじる622年とする説がある)磯し長ながの陵みさ621太子さぎ薨こうじる(※他の資料からなどの『本ほん記き』を記録する620618615『太隋犬国こ子が上く記と滅君きび』蘇、御、我唐田臣がお馬中鍬・み子国と連むら、を矢・じ『統田と伴天一もてす部のん造み皇の造やう・つる(『こ記唐、くき国に』帰の書造と国みやつ』)こめ蘇、我一千馬人子をの出病家気さ平せ癒るを祈るた614に派遣犬いぬ上かみの君きみ御み田た鍬すきと矢や田た部べの造みやつをこ隋見る18太子、片かた岡おか山やまに飢えた人を613 610難波と都の間に大道を造る倭国、隋に遣使・朝貢(『隋書』)609妹子帰国玄げん理りら留学生として随行)行させる(南みな淵ぶちの請しょう安あん、旻みん、高たか向むくの裴世清の帰途に小野妹子を随裴世清、隋の国書を奏上19巻第二十三