ブックタイトル名所図会 日本書紀ことはじめ編

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概要

名所図会 日本書紀ことはじめ編

子麻呂と網田は怯えて動けず、見かねた皇子がついて斬るよう手はずを整えました。しかし、の前で上表文を読み上げる際に、入鹿の不意を田だの石いし川かわ麻ま呂ろ臣おみが天あめ豊とよ財たから重いかし日ひ足たらし姫ひめの天すめらみこと皇(皇極天皇)に剣を授け、蘇そ我がの倉くら山やま城きの稚わか犬いぬ養かいの連むらじ網あみ田たの二人は、佐さえ伯きの連むらじ子こ麻ま呂ろと葛かずら年)六月、皇子と鎌子皇こう極ぎょく天てん皇のう四年(645その機会を待ちました。入鹿誅ちゅう殺さつの計画を立ての席で皇子に近づき、催したち打ょう?きゅう(まりうち)子こ(のちの天てん智ち天てん皇のう)がにしたいと、な中かの大おお兄えの皇みわきまえた秩序ある国横を除き、君臣の別を原鎌足)は、蘇我氏の専中なか臣とみの鎌かま子この連むらじ(のちの藤ありました。ぶりは目に余るものがらせるなど、その横暴めて自分たちの墓を作親子は、国中の民を集蘇そ我がの大おお臣おみ蝦えみ夷しと入いる鹿かの臣おみ蘇そ我が氏し倒れる巻第二十四皇極天皇して幕を降ろしました。自害しました。乙巳の変のクーデターは、こうの死を知った蝦夷は、館に火を放ち一族ともに「やあ!」と斬り付け入鹿を誅伐しました。入鹿乙いっ巳しの変19やまだでらあと山田寺跡▲MAP P30桜井市山田元は蘇我倉山田石川麻呂臣の発願で建立された寺である。石川麻呂は、中大兄皇子らが蘇我入鹿の暗殺を謀った乙巳の変にて、合図となる上表文を読んだ人物。右大臣にまでなったが、その後謀反の疑いをかけられ、建設途中の山田寺で自害することとなる。講堂の本尊像の仏頭(国宝)が興福寺に残る。あまかしのおか甘樫丘(写真は丘からの眺望)MAP P30高市郡明日香村大字豊浦皇極天皇3年(644年)冬11月「蘇我大臣蝦夷・子入鹿臣、家を甘樫丘に雙(なら)べ起(た)つ。」『日本書紀』によると、乙巳の変が起こるわずか半年余前に蝦夷と入鹿の父子が家を建てたとされるのが、甘樫丘である。飛鳥寺や首塚、宮跡など南東側の飛鳥、そして北側の藤原京方面を見渡せる。▲たんざんじんじゃ談山神社▲MAP P31桜井市多武峰319祭神は藤原(中臣)鎌足公。多武峰に位置し、桜と紅葉の季節は特に美しい。多武峰は『日本書紀』に何度か登場するが、最初は斉明天皇2年(656年)で、石垣をめぐらし宮を作ったという内容である。中大兄皇子と鎌足が乙巳の変の密談をした場所との伝承があるが、それ以前から信仰される霊山であったことも知っておきたい。疑われ山田寺にて自害蘇我倉山田石川麻呂、謀反を649648647冠磐い渟わぬ位舟ふ足たねのりの十柵柵きき九をを階造造をりり制、柵きの定蝦戸へ夷をに置備くえる冠位七色十三階を制定646改新の詔を発布難なに波わの長なが柄らの豊とよ碕さきの宮みやに遷都(大化)孝徳天皇皇極天皇舒明天皇645644643642子が討伐させる古ふる人ひとの大おお兄えの皇み子こ謀反。中大兄皇大たい化かと改元する中大兄皇子、皇太子となる孝こう徳とく天皇即位記』・珍宝を全て焼き、一族滅亡蘇我蝦夷、『天皇記』・『国入鹿を討つ19中大兄皇子・中臣鎌子ら、蘇我並蘇び我建蝦て夷る・入鹿、家を甘あま檮かしの岡おかに麻ま呂ろの次女遠お智ちの娘いらつめを妃とする中大兄皇子、蘇我倉くら山やま田だの石いし川かわ寺の打?の場で接触中なか臣とみの鎌かま子こ、な中かの大おお兄えの皇み子こと法興王み蘇こは我入鹿、斑鳩寺に入り自害山やま背しろの大おお兄えの王みこを襲撃、舒明天皇を押おし坂さかの陵みささにぎ改葬飛鳥板蓋宮に遷都て墓を造る宮に建て、また民を徴発し蘇我蝦夷、祖廟を葛城の高営百を済詔大す寺る建立と飛あす鳥か板いた蓋ぶきの宮みや造執り、権勢は父に勝る蝦夷の子・入いる鹿かが自ら国政を蘇我蝦夷を大臣とする皇こう極ぎょく天皇即位巻第二十五巻第二十四20