ブックタイトル名所図会 日本書紀ことはじめ編

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概要

名所図会 日本書紀ことはじめ編

丹波和泉摂津難波紀伊河内若狭乃楽山大津宮山背三尾城菟道大和稗田衛我河龍田箸陵竹内峠当麻飛鳥古京吉野宮(宮滝)大海人皇子吉野からの脱出経路大海人皇子方の動き近江朝方の動き瀬田粟津市琵琶湖菟田安河名張近江伊賀伊賀鳥籠山不破野上関不破息長横河鈴鹿関倉歴鈴鹿積殖山口壬申の乱天武元年(672年)伊勢迹太川美濃桑名『史話・日本の古代6』(作品社)より一部改変伊勢湾尾張皇はこの年の十二月に崩御しました。あり、壬申の乱と呼ばれています。に翼をつけて放つようだと言いました。天智天ました。この一連の戦は古代日本最大の内乱で野へ出立しましたが、ある人はこれを評して虎の大友皇子は自害し、大海人皇子が勝利を収めは出家して隠遁することを願い出、許されて吉て近江方と激しく戦いました。敗走した近江方大おお友ともの皇み子こを皇太子にするよう薦めました。自身破わに入り、赤い旗印の下で多くの軍勢を指揮し皇位は皇后の倭やまと姫ひめの王おおきにみ譲り、天皇の息子である子たちと合流して美み濃のの国くに(現在の岐阜県)の不ふと伝えましたが、大海人皇子は丁重に辞退し、軍兵を集めながら進み、近江から逃れてきた息海人皇子(のちの天てん武む天てん皇のう)に皇位を授けたいて挙兵しました。宇う陀だ(菟田)から伊賀、鈴鹿と(現在の滋賀県)で病に倒れました。天皇は、大狙っているという情報を得て、六月に吉野を出天智天皇十年(671年)、天皇は近江の都翌年、大海人皇子は近江の朝廷が自分の命を「翼をつけて放たれた虎」壬じん申しんの乱23巻第二十八天武天皇大おおし海あ人ま皇のみ子この深しん謀ぼう─むらやにいますみ村屋坐弥ふ冨つ都ひ比めじんじゃ売神社▲MAP P29磯城郡田原本町大字蔵堂426天武天皇元年(672年)、壬申の乱の際、村屋神が神主に乗り移り、「我が社の中を敵が来る。中ツ道を防げ」と大海人皇子軍に神託を与えた。この功績により、神社としてはじめて天皇から位を賜ったと『日本書紀』に記されている。古代の官道「中ツ道」はうっそうたる鎮守の森の中、今も境内を南北に通っている。さくらぎじんじゃ桜木神社▲MAP P31吉野郡吉野町喜佐谷字トチサ423祭神は大己貴命、少彦名命と天武天皇。吉野に逃れた大海人皇子が大友皇子の軍勢に攻められた時、このあたりの桜の大木に身をひそめて難を逃れた伝説も。『日本書紀』にある大海人皇子が吉野入りする様子を評した「虎に翼を着けて放てり」が刻まれた石碑が境内に建つ。天武天皇天智天皇諸氏の部か曲きべを廃止675初めて占星台を建てる674 673する大おお来くの皇ひめ女みこを伊勢神宮のい斎つきの王みこと天武天皇即位を造り遷る岡本の宮の南に飛あす鳥かの浄きよ御み原はらの宮みや9月大海人皇子、倭やまにと帰り着くく大山や友ま前さ皇きで子自、害逃げるところなで斬る五十い君きみ・た谷にの直あたい塩しお手てを粟津市23男依ら、近江の将犬いぬ養かいの連むらじ平定将軍吹負、倭やまのと地を完全に22大男友依皇ら子、・瀬左田右に大到臣達ら敗走で近江軍を破る7村むら国くにの連むらじ男お依よりら、息おき長ながの横河7/4に将敗軍れ吹退負却、乃な楽ら山やまで近江軍られる勝利をおさめ、将軍に任じ29大おお伴ともの連むらじ吹ふ負けい、飛鳥で挙兵し営む27不ふ破わに入り野の上がみに行かり宮みやを26迹と太お川かわ672で天照大神を遥拝する6/24吉野から菟う田だを経て東国へ近お江うみの宮みやにて崩御固辞して吉野へ隠遁する23皇)を呼び後事を託すが、皇子は671天皇、大海人皇子(のちの天てん武む天巻第二十八巻第二十七22