ブックタイトル名所図会 日本書紀ことはじめ編

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概要

名所図会 日本書紀ことはじめ編

畝傍山ふじわらきょうじょうぼうふくげんず藤原京条坊復元図下ツ道耳成山藤原宮甘橿丘中ツ道香具山藤原京は、発掘調査の結果、東西の大路(条)と南北の大路(坊)を碁盤の目のように組み合わせて区画する条坊制に基づいて作られた都であったことが明らかになっている。その条坊の全体像については、藤原宮を中心とした十条十坊の正方形であったという説が有力だが、未だ意見が分かれている。ふじわらきゅうせき藤原宮跡▲MAP P30橿原市高殿町わが国で初の本格的都城、藤原京。天武天皇が新しい都作りを計画したが、完成を見ずに崩御し、次の持統天皇が建設を引き継ぐ形で、持統8年(694年)に遷都を実現させた。以後、文武天皇・元明天皇と三代16年にわたりこの国の都であった。宮には内裏、大極殿、朝堂院、正門などの建物があった。現在は広い敷地内に大極殿の土壇が残っている。また朝堂院の一部が列柱で再現されている。こはかつて近江の都から、天武天皇に従って隠遁した地でもあり『日本書紀』は、この記述で全三十巻を結んでいます。持統天皇は、在位中に吉野の宮滝まで何度も行幸しました。そ天皇)に天皇の位を譲りました。などへの祭祀も引き続きとりおこないました。持統天皇十一年(697年)、天皇は、孫のか軽るの皇み子こ(のちの文武また、天武天皇が信仰していた伊勢神宮や広瀬大忌神と竜田風神(694年)に遷都しました。律や戸籍の整備、歴史書の編へん纂さん、新羅との外交などがありました。また、飛鳥の西北に藤ふじ原わら京き(ょう新しん益やくの京みやこ)を造営し、持統天皇八年政策のひとつひとつを完成に導いていきました。その中には、法に31回も通ったと記されています。持統天皇は、天武天皇の遺志を継承し、天武天皇が進めていたました。壬申の乱の出発点となったその土地への思いは強く、実『日本書紀』最終巻藤ふじ原わら京きょう遷せん都と27菅谷文則(すがやふみのり)Profile奈良県立橿原考古学研究所で古墳・寺跡などの研究に従事。’79年北京大学に留学。シルクロード学研究センター研究主幹などを経て、’95年から’08年まで滋賀県立大学教授。’09年から橿原考古学研究所所長。滋賀県立大学名誉教授・帝塚山大学名誉教授・早稲田大学シルクロード調査研究所招聘研究員。土品によって進められているのである。『日本書紀』の信頼性は考古学と、その出役場東側において発掘することができた。の大極殿であるエビノコ大殿を明日香村原宮の位置が確定した。数年遅れて初期定した。50年代には、天武天皇の飛鳥浄御昭和40年代初期に、藤原京の位置が確として藤原京が造営された。う飛鳥浄御原宮などをへて、計画的都市ている両槻宮。大極殿が建設されたとい巳の変は飛鳥板蓋宮か、道観かと言われ藤原に宮を置かれていた。645年の乙のうち近江宮の二代を除く、八代は飛鳥・置かれていた。推古から文武までの十代平城に遷都するまで、飛鳥と藤原に宮がとが記されている。こののち、710年にしろしめす」とあり、豊浦宮に即位したこ年に推古天皇が、「豊浦宮にあまつひつぎ「宮」であった。『日本書紀』には、592政治の中心軸は、天皇らの居住地である歴史時代といってもよい七~八世紀の『日本書紀』と発掘調査25