ブックタイトルなら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

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概要

なら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

与えることにする我が身一つを入鹿に傷つけたくない私のために民を戦えば勝てるだろうが山背大兄王権力を独占する蘇我氏は、意のままにならない優秀な山背大兄王には天皇になってほしくなかったのかな?なってしまいました。してこの世からいなく徳太子の一族は、こうました。和を重んじた聖どもたちと共に自害しめ、山背大兄王は妃きさきや子ころを再び入鹿の軍勢に取り囲まれることに…。戦うことを諦あきら駒こま山やまに身を隠かくした山背大兄王たちでしたが、法隆寺に戻ったと643年、蘇そ我がの入いる鹿かによって斑鳩宮が襲おそわれます。一時は生いの関係がよくありませんでした。次期天皇候補であったため、他の皇子を天皇にしたい蘇我氏とは、息子の山やま背しろの大おお兄えの王みこの一族が住んでいました。山背大兄王は皇み子こ(聖徳太子)の宮殿「斑鳩宮」があり、太子が亡くなった後世界遺産として知られる斑いか鳩るが町・法ほう隆りゅう寺じ。その東には、厩うまや戸との斑いか鳩るがの宮の悲劇みや『日本書紀』に書いてある乙巳の変にまつわるエピソードました。飛鳥時代に行われたこの政変が「乙巳の変」です。たのです。その後、父の蝦え夷みしを自殺に追い込み、蘇我氏は滅亡し羅ぎ、高こう句く麗りからの使者を迎える儀ぎ式しきの場で、蘇我入鹿を暗殺しねて戦略を練り、645年、ついにその時が訪れます。百くだ済ら、新しらし出したことをきっかけに、二人は急接近。何度も話し合いを重うな球きゅう戯ぎ)をする皇子の靴くつが脱ぬげ、これを鎌足がひざまずいて差す。法ほう興こう寺じ(飛鳥寺)で打ちょう毬きゅ(う鞠まりを杖つえで打って遊ぶホッケーのよを倒すのにふさわしいリーダーを探し、中大兄皇子に出会いまとしている人物がいました。中臣鎌足です。鎌足は共に蘇我氏権力を独占する蘇我氏に対して、腹を立て、反乱を起こそう運命の二人の出会い中臣鎌足歴史を変える…?この靴が中大兄皇子『日本書紀』味わいポイント!乙巳の変ゆかりの地中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏かたら打倒の密談をし、「談い山」と呼ばれたんざんたことが談山神社の由来です。二人ひんぱんは、頻繁に会っているのを他人に疑わみなぶちのしょうあんれないように、南淵請安のもとに学びにいく道中で語りあいました。談山神とうのみね社のある多武峰まで登って語らうこともあったのかもしれませんね。飛鳥寺の西方には、二人が出会ったつきといわれる「槻の木の広場」や、乙巳の変のときに入鹿の首がここまで飛んくびできたという伝説の「入鹿の首塚あります。づか」が万葉展望台入鹿の首塚▲MAP P27談山神社▲MAP P25談山神社には藤原鎌足がご祭神としてまつられています。皇子と鎌足はどんな気持ちでこの国の未来を考えたのでしょうか。万葉展望台から飛鳥を見下ろして、想像してみましょう。11