ブックタイトルなら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

ページ
14/32

このページは なら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─ の電子ブックに掲載されている14ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

なら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

今こそ強い律令国家をつくらなければ。国の守りを固めて天皇として即位することを決めた。私は近おう江み(現在の滋賀県)へと都を遷し唐・新羅から攻められる危険も出てきた。大化2年(646年)に示された、新しい政治の方針であるみことのり「改新の詔」。その改革を進めたのが中大兄皇子だったんだね「白村江の戦い」に敗れたことでさらに日本は百くだ済らに加勢して、唐と・う新しら羅ぎの連合軍と戦ったそんな中、母の斉明天皇が亡くなった。本来のあるべき姿は、天皇を中心とした国づくりなのだ!豪ごう族ぞくが権力を持っていた、これまでの政治はもう終わり。私は皇太子として政治の改革に取り組んだ。叔お父じの孝こう徳とく天皇と母の斉さい明めい天皇の時代、「乙巳の変」のあと、鎌かま足たりと共に蘇そ我が氏しを倒したう江みに都を遷うつ近お乙い??っ巳しの変からした23年後に即位した皇舒じ??ょ太明めい天皇と子として政治を主導した皇こう極ぎょく天皇の皇子天てん智じ天てん皇のう(中なかの大おお兄えの皇み子こ)『日本書紀』によるプロフィール新たなる政治方針大た化いのか「大化の改新」は教科書にこのように登場するよ!改か新いし『日本書紀』にはどう書かれているの?まれて、官軍は大敗しました。攻撃しました。唐にあっという間に左右を挟乱している日本軍の兵士を率いて、唐の軍をだろう」と言いました。そうしてふたたび混て、「我らが先制すれば、敵は自然に退却するちと百済王は、状況を見極めもせずに相談し●(天智天皇二年八月)二十八日に日本の将軍た東京書籍新しい社会歴史より引用の内容)ただちに改新の詔を告げて…(以下改新の詔●(大化)二年の元日に、賀正の挨拶が終わると、【現代語訳】軍いくさ敗や績ぶれぬ。を夾はさみて繞かくみ戦ふ。須と臾き之の際まに、官み之むる軍いくさを打うつ。大唐、便すなはち左ひだり右みぎより船ふね中なかの軍いくさの卒ひとどもを率ゐて、進すすみて大もろ唐こしの堅つら陣かたし」といふ。更さらに日本の伍つら乱みだれたる等ら先さきを争あらはそば、彼かれ自おのづからに退くべ気けの象かたちを観みずして、相あひ謂かたりて曰いはく、「我われ?己きい酉うに、日やま本との諸もろもろのい将くさのきとみ百くだ済ら王わうと、巻二十七内容)して曰のたまはく、…(以下改新の詔の礼れい畢をはりて、即すなはち改かい新しん之のみ詔ことのりを宣のら?二年の春正月の甲かふ子しの朔つきたにち、賀が正しゃうの巻二十五そして白(はく村そん江こう)の戦いへはくすきのえん14