ブックタイトルなら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

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概要

なら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

出大家海し人た皇子て吉野へと向かって行きました。そして、皇位を引き継ぐ意志のないことを示すため、出家をしことを知り、天智天皇の言葉を疑い、病気を理由に辞退します。大海人皇子は、大友皇子を次の天皇にしようという動きがある大海人皇子に自分の後を継ぐように伝えていました。しかし、人並み外れた能力を持っていました。病に倒れた天智天皇も、大海人皇子は、生まれながらに容姿端麗で、武道においては言われる「壬申の乱」へとつながっていくのです。と子・大友皇子の間で跡継ぎ争いが起こり、古代最大の内乱といます。そして、皇位継けい承しょう者として有力だった弟・大海人皇子力を持ちました。しかし、その後天智天皇は、病に倒れてしま攻めてくることに備え、近おう江みへ遷せん都と。天皇に即位して絶大な権「白はく村すきの江えの戦い」での敗戦後、中なかの大おお兄えの皇み子こは唐とう・新しら羅ぎが海から天智天皇の跡あと継つぎ争い『日本書紀』に書いてある壬申の乱にまつわるエピソード大海人皇子の強さを知る人は、吉野に向かうとら大海人皇子を虎に見立てつばさ「虎に翼をつけて放つようなものだ」と言ったと記されているよ皇として即位します。(飛あす鳥か浄きよ御み原はらの宮みや)で天武天人皇子が勝利。飛鳥の都川がわでの決戦を制して大海びましたが、近江の瀬せ田た現在の岐ぎ阜ふ県けんにまでおよ繰り広げました。戦いは、で大友皇子軍との戦いを所を確保しながら、各地て兵力を強化。交通の要地方の豪ごう族ぞくを味方につけ海人皇子は、吉野を出て、滅ぼすわけにはいかない」と立ち向かうことを決意します。大大友皇子の動きを知った大海人皇子は、「このまま黙って身をた。民に武器を持たせ、吉野への道のあちこちに監かん視しを置きましで、大友皇子は、天智天皇の陵みささぎ(お墓)を造ると言いながら、農が崩ほう御ぎょし、子である大友皇子へと政権が移っていました。ここ大海人皇子が吉野に逃れている最中、近江の都では天智天皇古代最大の内乱壬申の乱『日本書紀』味わいポイント!大海人皇子の足どり17かみいち明日香村から吉野・上市に通じる古いもがとうげ道芋ヶ峠。壬申の乱の直前、出家した大海人皇子が吉野に向かったとき、この道を通ったのではないかと考えられています。天武天皇の皇后、?野讃良皇女(のちの持統天皇)は、自分が即位した後にみやたき31回も吉野・宮滝に行っています。その際もこの芋ヶ峠を通り、壬申の乱のことや亡き夫のことを思い、自らを奮い立たせていたのかもしれませんね。現在は古道芋ヶ峠がハイキングコースになっています。◆近くの中学校吉野中学校古道芋ヶ峠宮滝▲MAP P29古道芋ヶ峠▲MAP P27現在は車道が整備されていますが、古道・芋ヶ峠は険しい山道を歩いていきます。春や秋などの気候のいい時期がおすすめです。危険な箇所もありますので、必ず保護者の方と一緒に出かけましょう。