ブックタイトルなら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

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概要

なら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

自ら死に臨のぞむしかなかったのだ…瀬せ田たの唐から橋はしの戦いで破れてしまい、ついには私自らが軍を率いたのだが…わが近江側は連敗を続け豪ごう族ぞくたちがまとまらずに戦いの準備段階で大きく出遅れてしまった。諸国に協力を要よう請せいしたが叔お父じ・大海人皇子の軍が攻せめてくると知り近江の都にいた私は、吉野に隠いん居きょしたはずの政治の支配権は私のものに。皇位を引き継つぐことを強く辞退したためその弟である大海人皇子が天智天皇が亡くなる直前絶対的な統治者だった父奈良の壬申の乱・戦いの地古代最大の内乱、壬申の乱(672年)。戦場となった場所は奈良県内全域に数多く残っています。大おお友ともの皇み子こあなたの身近な場所がかつて、政権を争う戦いの場だったかもしれません。24歳の若さで自ら命を絶つ?大おお海あ智人ま天の皇皇み子のことものと皇で位継けい承しょう争いに敗北、太だ政じょう大臣となる天天て??ん智じ天皇の第一皇子『日本書紀』によるプロフィール近お江う朝みち廷ょうていから見た歴史ならやま乃楽山MAP P23大友軍は大海人軍と戦い、勝利。大おおとものふけい海人軍の将軍・大伴吹負は宇陀へ逃げ、大友軍はそのあとを追います。奈良市と京都府木津川市の県境を東西にのびる平城山丘陵。現在は住宅や学校などが多くあります。▲大友皇子湖安河大津宮×粟津×瀬田×山三尾城×琶琵近息長横河××江鳥籠山野上不破関美濃尾張たかやすのき高安城MAP P23大海人軍が攻めてくると知った高安城の大友軍は、米蔵に火をつけて逃走。高安城は戦わずして大海人軍のものに。天智天皇が築いた古代の山城。平群町と大阪府八尾市の県境にある高安山の山頂付近にあったとされています。▲摂難波津背×?萩野×河×乃楽山内高安山名張箸陵菟田×衛我河××当麻飛鳥古宮(飛鳥浄御原宮)吉野宮大和倉歴伊賀大海人皇子伊勢×大友皇子軍の進路大海人皇子軍の進路おもな戦場すみさか墨坂(墨坂神社)▲MAP P25乃楽山で敗れて兵を失った大海人軍は、宇陀の墨坂で援軍1000人と合流し、体制を立て直しました。『日本書紀』にたびたび登場する墨坂。交通の要所でした。墨坂神社はかつて宇陀市榛原の西峠付近にあったとされています。たぎま当麻大友軍と体制を立て直した大海あしいけしょうとつ人軍が葦池のほとりで衝突。大海人軍が勝利し、大友軍は兵も将軍もことごとく逃げ出しました。葦池がどこにあったのか現在は不にじょうざん明。二上山のふもとでの戦いだったのでしょう。はしはか)箸陵(箸墓▲MAP P25箸墓のほとりで大友軍と大海人軍が衝突し、大海人軍が大勝。これ以いど降、大友軍が大海人軍に戦いを挑んだ記録は残っていない。みわやま三輪山がよく見える箸墓の周辺でも壬申の乱での戦いがありました。18