ブックタイトルなら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

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概要

なら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

として即位し、引き継いでいくのです。完成させることはできませんでした。その志は皇后が持統天皇ました。しかし、その後、天武天皇は病に倒れ、これらの事業をしい都「藤原京」を飛鳥の北面(現在の橿原市)に造ることにし央集権化が進むにつれ、より大きな都が必要となったため、新ため、『古事記』『日本書紀』の制作に取りかかります。また、中この頃ころに、国内外に向けて国や天皇家の成り立ちを紹介する絆きずをな表すエピソードが『日本書紀』に記されています。とを決めます。これによって皇后の病気が治ったという、二人の天武天皇は病気になった皇后の回復を願って、薬師寺を建てるこれを支え、ともに進めたのが天皇の妻(皇后)でした。680年、した国の中央集権化を強化しようと、様々な政策を進めます。そ673年、大おお海あ人まの皇み子こは天武天皇となり、兄の天智天皇が目指天武天皇と持統天皇歴史書にまとめよこれまでの出来事を皇室の記録や天武天皇と皇子・官人たち『日本書紀』に書いてある藤原京遷都にまつわるエピソード文武天皇未来を託たくしますーあなたに持統天皇紀』はこの出来事を最後に全三十巻が完結しています。孫である軽かるの皇み子こ(文武天皇)に天皇の位を譲ゆずりました。『日本書31回も通ったと記されています。697年、持統天皇は自身のいます。壬申の乱の出発点となった吉野への思いは強く、実に持統天皇は、天武天皇との思い出の地・吉野を何度も訪れて交わらせ、日本で初めて「条じょう坊ぼう制せい」によって造られました。た唐の都を見本として、南北と東西の道路を碁ご盤ばんの目のように具ぐ山やま、畝うね傍び山やま)に囲まれた、古代最大の都。当時の先進国であっ原京遷都」でした。藤原京は飛鳥の北西、大やま和と三さん山ざ(ん耳みみ成なし山やま、香か行います。その中でも一大事業であったのは、694年の「藤持統天皇は、夫であった天武天皇の政策を引き継いだ政治を次世代への引き継ぎを『日本書紀』味わいポイント!天武・持統天皇ゆかりの地藤原京は『日本書紀』には「新益京(あらましのみやこ、しんやくのみやこ)」と書かれています。平城京に遷都するまで21の1 6年間、この国の都でした。はっくつ現在の藤原宮跡は発掘調査が進められていて、『日本書紀』の次の時代しょくにほんぎの歴史書、『続日本紀』の記述と一致する発見もあります。天武天皇から様々な事業を引き継いだ持統天皇は702年に亡くなりました。藤原宮から真南にあたる明日香ひのくまおおうちりょう村の檜隈大内陵に天武天皇と夫婦でがっそう合葬されています。藤原宮跡藤原宮跡◆近くの中学校八木中学校ひのくまおおうちりょう)天武・持統天皇陵(檜隈大内陵▲MAP P27天武天皇・持統天皇が合葬されている陵墓です。持統天皇は天皇としてはじめて火葬されています。鎌倉時代の盗掘の検分記録から、八角形の古墳だということがわかりました。被葬者が特定できている数少ない陵墓の一つです。◆近くの中学校聖徳中学校