ブックタイトルなら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

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概要

なら記紀・万葉 名所図会 ─日本書紀・歴史体感編─

しくなっていったのです。火をつけました。両者の争いは親子二代にわたり、ますます激が起こったと考え、仏像を難なに波わの堀ほり江えに流し捨て、稲目の寺にまいます。これをみた物部尾輿は仏教の信仰によって国に災いまもなくして国中に疫えき病びょうが流行り多くの国民が命を落としてし目は、自身の邸てい宅たくを寺に改装して仏像を拝みました。しかし、稲いな目めと、反対する臣下の物もの部のべの尾お輿こしは激しく対立します。蘇我稲仏教を取り入れるかどうかをめぐって、賛成する臣下の蘇そ我がの二代にわたる対立!蘇我氏VS物部氏れています。それまで自然の神々を信じてきた日本では、人の形をした金銅の像をまつることはなく、初めて仏像を見ておどろ驚いただろうね…て『日本書紀』に記さ事が「仏教伝来」としたのです。この出来ため、臣下にたずねかどうかを決定するて仏教を取り入れるこび、仏像をまつっ典てん、仏具などを献上しました。欽明天皇は仏教の教えを大変よろ552年、百済の聖明王の使者が、欽明天皇に金銅の仏像や経きょう欽きん明めい天てん皇のうと聖せい明めい王おう『日本書紀』に書いてある仏教伝来にまつわるエピソード(飛あ鳥すか寺でら)や四し天てん王のう寺じ、法ほう隆りゅう寺じなどが建てられるのです。我氏が勝利したことで仏教が取り入れられ、このあと法ほう興こう寺じすると、馬子軍は勢いを取り戻し、守屋軍に勝利しました。蘇子とともに戦う厩戸皇子(聖徳太子)が仏像を作り戦勝を祈願。し、三度も退却させました。劣れっ勢せいとなった馬子軍でしたが、馬を固め、馬子軍を激しく攻こう撃げきた。一方、守屋は一族で守り屋やを滅ほろぼすことを計画しましたちや群臣とともに、物もの部のべの守もり587年、蘇そ我がの馬うま子こは皇子蘇我氏の勝利はいかない!そがのうまこ蘇我馬子●蘇我稲目の子●仏教を深く敬う●推古朝には天皇の叔父として権力を振るう取り入れないわけに百済の聖明王(聖王)わが国だけがしている仏教をこぞって礼らい拝はい外国では敬うべきだ!古来の神をわが国もののべのもりや物部守屋●物部尾輿の子●日本古来の神を敬うべきだと蘇我氏と対立●最後は馬子に本拠地を攻められ敗北『日本書紀』味わいポイント!仏教伝来の地現代のように車や飛行機がない時代、仏像はどのように運ばれてきたのでしょうか。実は古代の奈良県では河こうつうもう川の交通網が発達しており、船での交易が盛んに行われていました。つばいち桜井市にある海柘榴市は、大阪なにわつ(難波津)から大和川をたどってやってくる船の終着地点で、国内有数のやまべ交易の中心地でした。山の辺の道やはせかいどう初瀬街道などたくさんの道も交差し、国内外の様々な物が集まる日本で最初の市場であったといわれています。◆近くの中学校大三輪中学校桜井西中学校飾り馬ひ仏教伝来の地碑交通の要所海柘榴市▲MAP P25百済の使者が仏像と経典をたずさえて上陸したのがこの地。仏教伝来の地の石碑が建っています。川岸に並んでいる飾り馬けんずいしおののいもこはいせいせいは遣隋使・小野妹子が隋の使者・裴世清と一緒に帰国したときの『日本書紀』の記述から発想して作られました。かつて国際的な玄関口だったこの場所で、当時のことを想像してみましょう。7