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◎ 原 始 旧石器時代、奈良盆地の西にそびえる二上山麓では、加工しやすいサヌカイト (讃岐石:非常に固く、切り口が鋭い石)が豊富にとれたため、人々はそれを 加工し、狩猟道具として用いるとともに、それらを近畿各地に運び、交易を行 っていたことが明らかになっている。 近年、縄文時代草創期の生活遺跡が山辺郡山添村で発掘されたが、湿地帯の多 い奈良盆地では、縄文時代の後・晩期になって人々はようやく盆地の各地に進 出し、狩猟や採集の適地を選び、定着するようになっていった。 紀元前3世紀頃になると、大陸から稲作技術を携えた弥生文化人が移住し、奈 良盆地の低湿地を利用した水田耕作が始まった。田原本町の唐古・鍵遺跡など はその頃の集落遺跡であろう。
3世紀後半から4世紀初めにかけて、奈良盆地東部の三輪山山麓に巨大な前方 後円墳がつくられるようになった。大王家を中心に、やがて全国統一に歩み出 す大和の古代豪族らの墓であるといわれている。4世紀末から5世紀になると、 大型前方後円墳は盆地の北部や西部などでつくられるようになった。佐紀古墳 群(奈良市)や馬見丘陵古墳群(広陵町、河合町)などが有名である。 6世紀になると、有力豪族のうち、渡来人集団との関係が深かった蘇我氏は飛 鳥に本拠地を移し天皇家とも姻戚関係を重ねるとともに、大陸から伝来した仏 教の保護に力を注いだ。やがて、飛鳥地方や法隆寺のつくられた斑鳩地方を中 心に仏教文化が花開くことになる。 蘇我氏と関係の深い聖徳太子は、摂政として政治を行い、小野妹子を隋に派遣 したが、その死後、大化改新を経て、隋や唐を模範とする律令体制が採用され、 壬申の乱を経て、大和三山に囲まれた地域に藤原京(橿原市)が造営された。 その後、中央集権を強化するために、唐の都であった長安を範とし、盆地北部 に造営されたのが平城京(奈良市)である。飛鳥や藤原京にあった多くの寺院 も平城京に移転し、都の東には興福寺や東大寺が建立された。国際色豊かな天 平文化の姿は、正倉院に残された多くの遺物に忍ぶことができる。 794年、都は平安京(京都市)に移され、貴族たちが去るとともに、大和の 活気は失われたが、諸寺は残されたため、「南都」奈良は社寺詣での人々で賑 わった。
平安時代になると、奈良の都は政治の舞台から遠ざかるが、平安時代末には源
氏と平氏の対立が激しくなり、やがて源頼朝の挙兵に伴い、東大寺や興福寺は
平氏によって焼き払われた。
やがて、鎌倉に幕府を開いた源頼朝は南都の社寺を保護し、運慶や快慶一派の
仏師によって、今に残る東大寺南大門の仁王像などの力強い彫刻がつくられた
のである。
鎌倉時代末には南北朝の対立が始まり、南朝方が吉野山(吉野町)に政府を設
けるなど、大和は再び政治の舞台となった。
室町時代になると、大和の有力な土豪たちは衆徒・国民と呼ばれる武士に成長
し、京の都で勃発した応仁の乱には、そうした大和武士も参戦した。一方、能
楽の源流である大和猿楽四座の成立や村田珠光による侘び茶の考案は、当時の
高い文化水準を象徴している。
戦国時代に入ると、一向宗が台頭し、一揆を起こして興福寺などを焼き払うと
ともに、民衆は力をつけてきた一向宗を信仰し、今井(橿原市)、高田(大和
高田市)、田原本(田原本町)などには寺内町がつくられた。
下克上の嵐は大和でも吹き始め、信貴山城や多聞山城を拠点とした松永久秀や
筒井順慶が勢力を拡大し、対立。兵火により、東大寺の大仏殿などがその被害
にあった。
松永久秀は、天下統一をめざした織田信長に討たれ、大和は信長に従った筒井
順慶の治めるところとなる。しかし、信長の没後、全国統一を成し遂げた豊臣
秀吉は、実弟の秀長を郡山城(大和郡山市)に封じた。秀長は城下の郡山以外
での商売を禁じたり、太閤検地を実施したりするなど、大和を封建制の枠組み
のなかに組み込んでいった。
関ヶ原の戦いの後、江戸に幕府を開いた徳川家康は、畿内の重要拠点として、
事実上、大和を幕府の直轄地とし、南都には奈良奉行所がおかれた。
郡山城には水野氏をはじめ、松平氏、本多氏など、歴代にわたって譜代大名が
封じられていくが、宇陀松山城(大宇陀町)に入部した信長の次男信雄一族は、
その後、お家騒動により丹波国柏原(兵庫県柏原町)に転封された。
明治初年の版籍奉還の際、大和には八つの藩があり、郡山、高取のほかはいず
れも小藩で、陣屋を置いていたが、各大名のなかには、熊沢蕃山を起用した郡
山藩主松平信之のように、好学の人物も多かったといわれている。
江戸時代、南都では奈良漆器、奈良うちわ、筆、墨などの工芸品がつくられ、
三輪山麓ではそうめんが製造された。また、典型的な商品作物として、綿花や
菜種が盛んにつくられ、生産物は大坂の商人との間で取り引きされた。郡山や
田原本、高田などに綿繰問屋や綿問屋が発展し、大和絣や奈良晒が盛んに生産
された。
一方、春日若宮祭やお水取り行事(東大寺二月堂の修仁会)などが復活すると
ともに、有名な社寺や史跡などをめざして、文化人をはじめとする多くの人々
が観光に訪れるようになったことも意義深い。
幕末の1863(文久3)年、討幕をめざす長州藩士などで構成された天誅組
が、五條にあった代官所を襲撃し、代官を殺害して、一時五條新政府を名乗っ
たが、幕府の命を受けた近隣諸藩により鎮圧された。尊皇討幕のさきがけとな
った事件である。
討幕後成立した新政府は、鳥羽・伏見の戦いを経て1868(慶応4)年、奈
良の地に大和鎮台を設置した。この鎮台を基礎として、同年5月には奈良県が
誕生したが、1871(明治4)年の廃藩置県の際には、各藩がそのまま県と
なったため、他国に城郭を構える大名の所領も含め、大和には奈良・五條・郡
山県など15県が成立した。しかし、同年11月には、大和一円を管轄する奈
良県が設置され、ここに現在の奈良県の基礎が確立されたのである。
ところが、政府の府県統合策により、1876(明治9)年奈良県は堺県に、
そして1881(明治14)年堺県は奈良県を含んだまま大阪府に編入された。
県庁を失った大和は、土木事業で不利をこうむるなど、さまざまな面で沈滞し
ていく。
そうしたなかで、大和選出の府会議員や有識者が中心となり、奈良県再設置運
動が粘り強く展開された結果、1887(明治20)年11月4日、ようやく
奈良県の独立が認められたのでる。
以後、沈滞ムードは一掃され、道路や鉄道が整備されるとともに、農業の分野
では品種の改良や施肥の工夫などにより、反当たりの水稲の収穫量が「奈良段
階」と呼ばれるほどの水準に達した。
また、昭和に入り、盆地部で盛んにつくられ、名声を博した大和スイカも忘れ
てはならない。
工業の分野では、奈良県再設置後、郡山や高田に紡績会社が設立されたのを機
に、繊維産業が発達し、第一次世界大戦後には、製薬やそうめんなどの食品加
工業、林産加工業なども盛んになった。
県内には古くからの寺院や仏像などが数多く残されてきたが、明治維新後の廃
仏毀釈の嵐を受けて、興福寺の五重塔までが売りに出されたり、廃寺が続出す
るなど、大きな打撃をこうむった。
しかし、1871(明治4)年の「古器旧物保存方」制定後、文化財に対する
認識も徐々に深まり、文化財保存の先駆的役割を果たすようになっていくので
ある。
敗戦後の高度経済成長期に、奈良県では多くの住宅地が開発され、人口も爆発
的に増加した。山間部の治水用ダムが建設され、あちこちに開発の波が押し寄
せている。
歴史的な景観を随所に保つとともに、そうした古い文化と新しい文化が共存を
めざす県として、奈良県はこれからもますます発展していくことだろう。
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